私の「イロハ」24.「ウ」宇宙

「宇宙」に関して人類が考えてきた歴史は、人類の想像力の多様性の歴史でもあり、我々現代人が知るところの膨張宇宙論はまだ100年ほどのことでしかない。宇宙開闢のビッグバンが137億年の昔に起こり宇宙が今のように見渡せる状態になった宇宙の地平は100億年のことだと科学書には書いてある。いずれにしても「…億年」という単位が我々の想像を超えてしまっている。

 何千年かの昔、我々の祖先は星と月と太陽を見て、忘れてはいけないこの地(球)を含めて、いろんな物語を作り、「宇宙」と言う実態や、概念は現代人から見るとイリュージョン・幻影の世界であったと思う。

我々は今も、物語のギリシャ神話の星座に拘っていて(私は水瓶座)人格や性格をそれに充てがったりしている。ある人は水瓶座のことを、「みずがめ座の性格 とてもフレンドリーで、愉快な話やジョークを好みます。 すぐ感動し、感情表現も豊かですが、一方通行の会話になってしまうことも。 とはいえ、一般論や世俗的な価値観に縛られることなく物事や人に向き合うことができます。」と言う。自分のことをそう思えば、そうかなぁ、と半分納得しそうになるが、全く根拠はない。アトラスが天球を担いでいる彫刻や絵が残っているが、日常の天空を眺めて、一人の巨人がその世界を担いでいるとイメージ出来たのだろうか?私が幼少の頃「夢想」と「現実」の区別がつかなかったこともあるが、我々の祖先、人類がまだ若かった頃は、今と違って「現実世界」を照査する方法も乏しく「現実」と「夢想」の境目が曖昧で目の前に見えている世界はそれ程確かなものでなかったのかもしれない。

 今も、超越的なものを容易に信じる事があるし、現実を上手く理解できない場合は超越的な神やスピリチュアルの世界に委ねてしまう。

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f:id:AchiM:20210127121157j:image水瓶座

 

f:id:AchiM:20210126162929j:image天球を支えるアトラス

 今、私が夜空を眺める時、宇宙の彼方を思い浮かべる術は何もない。137億光年の彼方まで拡がる宇宙空間が如何なるものなのか?何の想像も働かない。ただ、今もその宇宙が膨張し続けていると言う。すなわち星々の距離は離れて、今の科学的知見では元に縮まることはないらしい。この無限性にクラクラする。「無限性」にあまり馴染みのない我々の精神は、なまじ科学的な宇宙論を知識として知ったために狼狽えてしまう。一昔前、神が生きていた時代、たとえば、ベートーベンの生きた19世紀中頃まで天空に神を思い祈る事が出来た。

ベートーベンの第九シンフォニーの中で祈りのような旋律で歌われるシラーの詩の一節、

Ihr stürzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schöpfer, Welt?
Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界中の者どもよ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう 

 

40年ほど前、合唱をやっていて数年間、毎年暮れになると合唱団でドイツ語の歌詞を覚えてこの曲を歌ったのを思い出す。

Ihr stürzt nieder, Millionen の「stürzt 」(落ちる)と言う単語、6つ文字があって母音はひとつ、日本語的には舌と歯が上手く使えないでとても難しい。唾きをを飛ばしながら歌った。しかし、この部分とても超越的なものに祈りたくなる敬虔な響き。

 「星の王子さま」のサン・テグジェペリが砂漠に不時着して、夜、小高い丘で横になり空を見ると、まるで宇宙に投げ出されたように思えたという記述があった様に、地球もまさに宇宙空間を漂っているのが実感できたのだろう。私もそんな経験がしたいと思う。

 ここ岡山に来て、見える夜空の星数も増え、時々の天体ショウ、日蝕、月蝕、金星蝕、彗星、流星、月面や黒点の観測など写真に納めて楽しんでいる。火星や土星木星も挑戦してみた。宇宙に一歩踏み込むささやかなキッカケとして。太陽や月への距離も、光の速度 約30万km/s(これすらも我々の日常的な想像力を超えている)を基準に考えると、太陽から地球まで約8分19秒、月から地球まで2秒と言う距離である。月を見て、私は月の2秒前の姿を見ていることになる。考えてみれば、私からすると全て目にするものは私から何らかの距離がある。有限の光でもって見ているのは、全て、厳密には今の姿ではない、過去の姿と言ううことになる。宇宙に眼差しを向けることはそう言ううことなのだ。

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f:id:AchiM:20210127190038j:image月蝕、蝕がフルになると月が赤く映る。
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f:id:AchiM:20210127190035j:image黒点。これ迄の一年は黒点極少期でほとんどない。
f:id:AchiM:20210127190024j:image金星蝕(2012.6.5)
f:id:AchiM:20210127190021j:image私の望遠レンズで撮った火星。

f:id:AchiM:20210127192519j:image木漏れ日の日蝕 2012.5.20

f:id:AchiM:20210127193206j:imageカーテンに映った日蝕 (同上)

f:id:AchiM:20210127193243j:imageボール紙に穴を開けて映し出したピンホール日蝕 (同上)

 

 

私の「イロハ」23.「ム」夢想

正月が明けてから寒さが厳しくて、外での作業も減り、コタツに入って物思いに耽る時間が増える。今年、予定している作業としてギャラリー第二室として隣接している蔵の改造を考えているが、友達には最初のギャラリーが完成した時「次は2年後に完成させる」と豪語したのだが、現実は2年後に作業開始できるかどうかの状態。蔵の中は二階になっていて、一階には、ブリキで出来ている米の大きな貯蔵缶が三つ、ひと昔前農作業で使っていたような道具や、田圃に水を引くための人力の水車、その他使わなくなった建具や木端が所狭しとあり、2階には五つほどの長持ちと農作業用のむしろが積み上げてあり、ここにも木端が立てかけてある。

全体の空間は天井も高く、壁もしっかりとしていて頑丈そうである。

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この現実把握はむしろ、事の大変さ、物品の破棄や掃除を思うと気が滅入りモティベーションが下がる。年齢とともに自信がなくなっていく。

私は何かものを作ろうとする時、そのプランを誰かに話したくなり、誇大に語ってしまうことがある。昔、スピーカーボックスを作っていたが、思いが膨らんで、天井に届く程ものを作りたくなり意気揚々と友達に話すと、引かれてしまったことがある。その反応に少しガッカリしながら、自分の誇大性に気付かされたことでもある。実際、住環境(文化住宅)隣近所のことを思い、その時は作らなかった。

 「夢想」とは、夢のようにあてもないことを心におもうこと。空想。

意識が現実から離れて浮遊しているようで、あまり良いイメージではない。「夢想家」などと言われると揶揄されているようにも思う。子供の頃にはこの夢想癖で命を落としそうになったことが幾度かあった。五歳頃のこと、工場跡の用水池の辺りで板切れを浮かべて遊んでいたが、その浮かんでいる板がカッコいいボートに見えてきてそこに乗り込んだ瞬間、その板切れのボートは私を乗せることもなく転覆、私が溺れてあがいているところを、運良くそばにいた小学生、(エイちゃん)が棒切れをさしだしてくれて命拾いをした。

 また、同じ頃だったと思うが、木造の集合住宅の二階踊り場の手すりの上に立ち、鳥になったつもりでいると真っ逆さまに転落、頭を打って瀕死の状態、今でも頭のてっぺんは大きく凸凹変形している。

 やはり、子供の頃の記憶で『ノンちゃん雲に乗る』と言う映画を小学校の講堂で見た事があって、主人公の鰐淵晴子が木から池に転落する場面があったのを思い出す。

 改めてウイキで調べてみると、

『ノンちゃん雲に乗る』(ノンちゃんくもにのる)は、1951年に出版された石井桃子の児童文学作品。

1955年に鰐淵晴子の主演で映画化され、翌1956年にはテレビ化された。あらすじは、8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。

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子供は空想と現実の区別がつかない事がよくある。ほとんど夢想の世界を生きていたように思う。

 私は小学校に行ってからも、教師の話はほとんど聞かず窓の外を眺めながら夢想する日々だったので教師に不名誉な「ノボー」と言うあだ名をつけられたりした。中学校に行って友達が「ノボさん」と呼ぶので別の小学校から来た生徒が「おまえ、ノブオって言うの?」と尋ねられたりした。

 20世紀のフランスの哲学者、ガストン・バシュラール著の『空と夢』(運動の想像力にかんする試論)の中の第8章 「雲」、そこに

雲はもっとも無限的な《詩の対象》のひとつに数えられる。それは白昼の夢幻状態の対象である。それは気楽に束の間の夢想を誘い出す。人はしばし《雲の中に》いるが、実際的な連中にやんわり冷やかされて地上に帰ってくる。(引用)

その通りだなあと共感。

 この歳になって、体力の衰えを実感する今、目下の蔵の改造、絶対に今必要とまで思えないのでモティベーションがなかなか湧かない。そこで、私を奮い立たせてくれるのが「夢想」である。縦3m×横7m×高さ5mの薄暗い、厚い壁で囲われた、得体の知らない物と埃の堆積した空間を、まずはニュートラルな空間にリセットし、そこから、先のガストン・バシュラールの『空間の詩学』の中の「内密の無限性」の瞑想し夢見るくつろいだ魂が行動の原動力に代わる。まさに「夢想」の持つエネルギーである。

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私の「イロハ」26.「ノ」脳

「脳」。人間の思考や精神作用(心)が脳と言う器官でされていると考えるようになったのはそんなに古い話ではないらしい。古代ギリシャアリストテレスは、心(精神)の場として心臓を考えていたという。また医学の祖ヒポクラテスは感覚器と脳がつながっていることから、視覚、聴覚などの感覚や、喜怒哀楽などの感情、さらに思考や判断などの精神活動の場は脳にあると考えていた。17世紀、デカルトスピノザたちが「精神」「心」と「身体」の二元論で科学技術と「精神」を引き離したので科学革命が起こったと言われているが、感情や思考を精神作用の枠組みに入れて「身体」と切り離し、その後(19世紀)ジークムント・フロイトは無意識の研究を深め「脳の働き」の入り口に至ったように思う。そして現在、人の心の場所が脳であると言うのが定説となっている。 

「脳」という器官は神経医学的には「ニューロン」と言う神経細胞の集合体で、最近では脳の各部位でそれぞれ反応の種類で受け持つ刺激が特化していて、それを図像化する(色が変わるなど)のをよく見かける。このように見せられると「なる程」と脳の働きを理解できたように思ってしまうが、私はあまり納得できない。ひと頃、「右脳」「左脳」についての本も沢山出て、幾冊か興味本位で読んだことがあった。「左脳」は言語脳で「右脳」は空間や音楽を司っているとか、人種によってその使い方が違っていたり、「右脳」と「左脳」を「脳梁」と言う橋があって繋がっていて、女性と男性では平均的な太さが異なっていて女性の方が太いとか、などの話だったように記憶している。

医学の門外漢にも、セロトニンドーパミンなどの言葉が耳に入ってきて、神経情報伝達物質があると言うことは素人にも知られるようになった。会話の中でも「チョット、アドレナリン出過ぎとちゃうか」とか、「セロトニンが減って鬱になるよ」など俄医師になったりするくらい「心」の変化には敏感である。

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最近、人の名前がすぐ出てこなかったり、さっき使っていたものがどこに行ったか分からなくなり探し回ったり、物忘れがひどくなったなあ、と自分の年齢を考えれば仕方ないかとも半分諦めもするが、認知症などの例を身近で聞くこともあり、老人の介護問題とも合わせて一つの社会問題にもなっている。もうすぐ運転免許更新があり、先だって後期高齢者の講習(テスト)をドキドキしながら受けたが、目の動体視力検査、記憶・判断テストも何とかパスできたが、これから先の日常の自動車運転には、特に咄嗟の判断には不安はある。高齢者の交通事故が多くニュースで流されるせいもあるが、実際、若い頃のようには行かなくなっている。「脳」判断力も「身体」筋肉のように衰えているのだ。

 健康を維持するために、ジョギングや散歩する人は老若、近所にもいて、毎日、山を超え隣の町まで歩いている私より高齢の人もいる。

「歩くこと」が脳に良いと言う、医学的な見地もあるが、昔、古代ギリシャに「逍遥学派」と言うのがあったらしく哲学者の学校が歩きながら講義をしていたと言う。その名前を借用したのかどうか、日本の明治時代、坪内逍遥という小説家がいたなあ。受験時代に覚えた「当世書生気質」が記憶にあるが読んだことはない。

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古代ギリシャの「逍遥学派」はアリストテレスが創設したと言われているが、元々はプラトンソクラテスアカデメイアがルーツだそうだ。回廊をぞろぞろ歩きながら「真」とは何か、「善」とは、「美」とは、など言葉を投げ合っていたのだろうか?

 今、私は、犬に引っ張られながら、カラスに「アホー・アホー」と言われたり、トンビがクルクル雲の間を舞っていたり、とりわけ夕陽が綺麗かったり、池の水面を鴨が群れていたり、鷺が獨りそれをみながらジッと思索しているようだったり、日々の少しずつの空気や色の変化を感じながら歩くのは幸せな時間かもしれない。

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脳のことをアレコレ思いを巡らしていると、facebook の中のコマーシャルで「脳を司る脳」講談社ブルーバックスが目に飛び込んできた。

その内容の紹介は

 

脳のはたらきは、ニューロンが担っている――この常識が覆されようとしている。脳の中には、知られざる「すきま」があり、そこを舞台に、様々な脳活動が繰り広げられていたのだ。 心のはたらき、知性、ひらめき……ニューロンだけではわからなかった、「人間らしさ」を生み出す、知られざる脳の正体とは。 詳細はこちら→ https://kcx.jp/brctrlbr

【本書の内容】
◎ 寝ている間に流れる「水」が脳内を掃除している
認知症と脳を流れる水、睡眠の意外な関係
◎ 脳の若さの秘訣は「すきま」にあった!?
◎ 脳の「すきま」に拡散する物質が気分を決める
◎ ワイヤレス伝送のような脳の信号伝達があった!
◎ 電気を流すと頭が良くなる? 神経回路がシンプルな人ほどIQが高い?
◎ 知性やひらめきと関係する「もう一つの脳細胞」
脳科学から考える、脳を健康に保つ方法 ……など

■ 著者のことば......喜怒哀楽などの「こころのはたらき」の中には、ニューロンのはたらきのだけでは説明がつかない現象が数多く存在します。脳のニューロン以外の要素にその謎を解き明かす鍵があるのではないかと、注目されているのです。じつは、これまで重要視されていなかった「ニューロン以外の脳」が、脳の大切なはたらきを司っている可能性があるのです。本書を読み終えた頃には、すっかりこれまでとは脳の見方が変わっていることでしょう。(本文より)

『脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき』 著:毛内 拡 (講談社ブルーバックス

 

こんなのを見ると、またこの本を買ってみようかという気になってしまう。

私の「イロハ」22.「ラ」落陽

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夕方の散歩を終えて我が家に着くと、ちょうど背後にある小高い山の向こうに日が沈む時、その反対側の家の背後の雑木林の山?が黄金色に輝く。そんな風景を毎年、初冬の数日見ることができる。すかさず、スマホ(カメラ)を取り出して、輝く雑木林に向けたところが、体が直立できずどうしても前にのめってしまう。「あれ〜」不思議な体感で宙に浮いているみたい。何とか一枚撮影できて家に入る。その日はその後何事もなく1日を終えた。

 翌日の朝、とても寒くて、ゴミ出しの日で50mほど先のステーションに向かう途中、激しい目眩、ちょっと歩行困難か?とジッと佇んだが、少し治りフラフラしながら家に戻った。その日はその不安感もあって、ずっと炬燵の中で過ごす。断続的に襲ってくる目眩。原因を探ってみるがよく分からない。眼精疲労?神経疲労?物を凝視したり、何かを思い出そうとしたり、深く考えようとすると発作が襲ってくる。急に身体の向きを変え首を振ると意識が飛びそうになる。歳を考えず根を詰めていたかもしれない。

 丸三日間、すべての作業、活動停止、ひたすらボーと寝て、食べてまた寝る。コロナ禍の中病院に行く気もしない。

三日目には少し回復。四日目かなり回復したので少し作業を開始、二時間ほど駐車場の通路の造作をした。古い瓦を並べてコンクリートを節約。その分手間はかかるが。

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伝統的な日本の波の意匠。夕陽に輝く波をイメージしてセメントにベンガラを混ぜて瓦の間を埋めれば…と夢想してみたが、チョット未定。夕陽ついでに、この家の蔵に雲の形の板があったので、茜雲を模して赤く塗って、駐車場の横の壁に貼り付けた。

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夕陽尽くしで、このギャラリーの正面の柱にも夕陽に輝く波のイメージ彫り込む。

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私の「イロハ」21.「ナ」ナビ

「ナビ」navi のもとになった動詞navigate、ラテン語の<navigare>が起源で、navis=船 agere=操舵するが語源だそうだ。海や川を航行する、派生語のnavigation「航海」、navigator「航海士」。

 突然、昔見た映画を思い出す。1985年、フェデリコ・フェリーニのイタリア映画「そして船は行く」E LA NAVE VAを思い出した。とても楽しい、しかも哀愁を浴びた映画でストーリーはほとんど覚えていないが、いろんな種類の人が同船していてオペラの合唱があったり、グラスハーモニカを演奏したり、ダンスしたり閉ざされた船内の中で濃密な人生模様が繰り広げられる。この映画の粋な題名「そして船は行く」のイタリア語NAVEが記憶に食い込んでいた。

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先日、友人の誘いで閑谷学校のイベントを見に行った。数十年前に行ったことがあるが、道は全く覚えていないので、初めてipadgoogle navi を使ってみた。私の車にはナビはついていなくて、ほぼ使ったことがないし、必要性を感じたこともなかった。しかし、文明の利器への関心はあったので、使ってみると、安全上画面を見ることはせず隣の席に置いて、声の案内を聞いて走っていたが、交差点や分岐点の少し前から「この先30m、左折です」などと正確にアナウンスしてくれて難なく目的地に着くことができた。

 さて、余談だけど、閑谷学校の駐車場に着いて、車から降りようとしていると、折り良く、誘ってくれた友人と共通の知り合いが前を歩いているのが目に止まり、挨拶をしてイベントの場所を尋ねると、空模様が怪しかったので翌日に延期されたと言う。そしてその夜は予行演習のような事をするらしく、知り合いのスタッフが中にいて、中に入る許しをもらってその映像を建物に投射する予行演習を見るだけで友達には会えず帰ることになった。

 帰りは、すっかり日が暮れて、真っ暗な山道、田舎道を今度はナビなしで走行。来る時はすっかりナビのアナウンスに頼りきっていたので、地形や周りの様子が記憶になく暗中模索って感じになって、本来の動物的カンをフル稼働しながらなんとか帰宅できた。

 そこで思った。便利な文明の利器「ナビ」は確かに知らない初めての所に行くのには心強い味方である。しかし、それに依存していると、生身の身体が学習する(例えば町の建物や、交差点の形状、曲がり角の建物の形、周りの森の雰囲気も印象が薄く、あるいは右だろうか左だろうかなど迷う作業もなく)機会が大きく削減されるので、生の身体性が劣化するのではないかと危惧してしまう。

「迷者不問」と言う言葉があって、道に迷う人は、人に相談せずに、自分勝手に行動してしまうからだというたとえ。転じて、分からないことは、積極的に人に尋ねるべきだという戒め。「迷者」は、自分の行く道を分かっていない者の意らしいが。さてこれをどう捉えるべきか。わからない道は積極的に尋ねるという意味では、「ナビ」は有効で尋ねる相手としてはとても優れている。

逆に「道に迷えば 道を覚える」と宗教家の唱えそうな言い伝えもある。大いに迷えば新しい道が開けると言う意味だろうか。自分のことを思えば、いつもあれこれ迷って、それでもさほど成長しているようには思えない。が、あれこれ試行錯誤している間に実現することも多い。不器用な私としては一度ならず失敗してやっとこさ何かしら会得することがほとんどである。

 「ナビ」に限らず機械文明そのものが、身体の延長のようなものだから今更の話ではあるが、だから自分の身体性の劣化を実感してそれにわざわざ疑問を抱く機会もそうあるわけではない。むしろ便利さを讃えて、それがより豊かな生活だと思うことの方が当たり前になっている。

 似た話に、今年のコロナ禍でよく取り上げられるGPSによる個人の位置情報、例えば、ある街のある日の、人間の往来の密度がgoogle の調査で示され、それによって移動を制限する対策が取られたり、あるいは感染予想を立てたりと有益な面もあるが、携帯の位置情報で個人の行動も管理できるので、強い権力があれば支配の道具にもなる。少々窮屈でも管理されている方が楽と考える人もいて、今のようにコロナ禍の中では尚更、統制的な政策を受け入れる気分は強くなっていると思う。

 因みに、テロリストたちは決して携帯電話は持たないとか?位置情報が特定され直ちに攻撃対象となるからだそうだ。

 

私の「イロハ」20.「ネ」根

家の庭仕事をしていて、大変なのは旺盛に蔓延る「ドクダミ」「アップルミント」などの処理である。気を許すととんでもなく広範囲に勢力を拡大してくる。鍬で削って通路を整えようとするも、その下の層にも根が張り巡らされ、それを除去すると白い紐状のものでバケツ一杯になる。しかし少しでも土の中に根が残っていると、次の季節には立派に出現する。

 「ドクダミ」名前はすごくいかついが、白くて可愛い花を一面に咲かせて綺麗し、お茶にしたり、虫に刺された時に葉っぱを擦り込むと症状が治るなど効用もある。ドクダミ茶には、血管の悪玉コレステロール活性酸素を除去する作用があり、血液をサラサラにしてくれる。また、腸内に水分を集めてくれる、便を柔らかくしてくれたり、腸の神経細胞を刺激し、動きを活発にしてくれる。

f:id:AchiM:20201207230725j:imageドクダミの花

 「アップルミント」もハーブの一種で匂いもいいので友達に一株貰ってきたものが今では庭の至る所に広がり、ドクダミと同じように地下茎の勢力は半端ではない。

 哲学の世界で「地下茎」ー リゾームと言う概念がある。現代思想で、相互に関係のない異質なものが、階層的な上下関係ではなく、横断的な横の関係で結びつくさまを表す概念である。幹・枝・葉といった秩序、階層的なものを象徴する樹木(ツリー)に対していう、らしい。哲学の方はこれ以上書く能力がないので、さて置き、根は目に見えない地表の一枚下の層を這うようにひっそりとあらゆる方向に拡がっていく。「水と養分を求めて」という植物の戦略なのだろうが天に向かって上昇的に伸びていく幹や枝の華やかさ陽気さとは対照的に、暗くしぶとい、あるいは無秩序なイメージが強い。

 日本の古代(記紀の神話)に「根の国」という考え?があって、「黄泉の国」いわゆる死者のいくところは、天上ではなく地下にあったということか?

因みに漢語「黄泉」(こうせん)は「地下の泉」を意味するらしく、それからあの世が地下にあると言ううことで、死者の世界が「黄泉の国」になったとか。しかも、具体的に「根の国」への入り口は出雲あたりにあると言う説も。

 現代では地下帝国があるとまことしやかにいう人もいる。

 話変わって、数学で習った「平方根」(平方根とは、数に対して、平方すると元の値に等しくなる数のこと)、何で「根」なんだろう?

おそらく、「元の値」と言うことかな?「ルート」√、root、16世紀のドイツの数学者がラテン語radix(基数)(植物の世界では 根)を使ったところから来ているとか。なるほど、ラディッシュradishは大根(西洋の)だ。どうも語源はラテン語radixのようだ。「平方根」の概念の起源は紀元前6世紀のあの有名なピタゴラスの定理らしい。黄金比や数列で有名なイタリア12〜13世紀のレオナルド・フィボナッチは√2をradix de 2と表記したという。

 同じラテン語radixを語源に持つフランス語でracine=「根 根源」と言う言葉がある。同じ根(racine)を持つことを精神の拠り所とするところから他の根を差別するracisme人種差別と言う言葉が生まれた。悲しいことにこの感覚は人間の根源的なところにあり、民族意識と根強く結びつき、それを克服するためには幼少からの教育や、常に反省的に社会や人間関係を考える努力が必要だと思う。f:id:AchiM:20201207224253j:image「娘に説明された人種差別」

 「不思議の国ののアリス」が白いウサギを追いかけて、穴に入り迷い込んだ世界は横に拡がる地下迷路、そこではナンセンスな言葉遊びやパロディーが繰り広げられる。このナンセンスや意味の横滑りの文化は日本の古代からの得意とするところである。現代の駄洒落の言葉遊びにも脈々と受け継がれている。まさにリゾームの様相を呈しているように思える。西洋文化のように縦に堅牢な論理的積み上げ 例えば、ガストン・バシュラールの「空間の詩学」の建築に対する考え「われわれはある建物を叙述し、説明しなければならない。上の階は十九世紀につくられ、一階は十六世紀のものである。壁を精密に検討すると、この建物は十一世紀の塔を改築した事実が判明する。地下室にはローマ時代の基礎壁がみいだされ、地下室のしたには埋没した洞窟がある。この地層の上層部には石器があり、さらにより深い地層には同時代の動物群の遺物がみいだされる。これがいわばわれわれのたましいの構造であろう」と有るように頑とした構築が地下にも及んでいて、一方日本の建築構造物には、例えば五重塔なども地下の構造は「空」であり、鉛直の構造は束石によって支えられているだけである。堅牢な地下の構造がない分、アメーバのように自在に状況や意味をスライドさせて関係性を拡大させていくことができる。

 「根」とは、という野菜の「根」の定義は、例えばジャガイモは根ではなく茎の変化であり、大根は上部の緑っぽいところは茎で下部の白いところが根であるらしい。ということは葉緑素があって光合成をするところは、たとえ地下にあっても葉 あるいは茎のということか、あるいはそれが変化したものらしい。また、大木に絡まり這い上がる蔦を見ていると、這い上がっている途中で茎から根のようなものが出てきて大木の表皮に忍び込み、そこを基盤としたり養分を掠め取っているのだろうか。蔦はしたたかである。茎から気根を出して張り付き体を支えながら登って行く、「付着根、気根」というらしい。それが発達するとまるで宿主の木の表皮のようになり、ベリベリと剥がすのがチョットした快感であるが大変である。