私の歴史探訪 ⒈ 今城塚古墳

1.  今城塚古墳
数年前(おそらく2018年6月)私が小学校だった時の同窓会で、大阪府高槻市にある今城塚古墳に行った。存在は知っていたが左程の知識もなく行ってみると、大きな公園になっていて博物館(高槻市立今城塚古代歴史館)もあって立派な施設である。前方後円墳で早くから「継体陵」議論があり1958年に史跡指定の措置がなされ大掛かりな調査が為せれてからは一層「継体陵」の確信が深まっている。公式に認めれれている「継体陵」はここではなく茨木市摂津富田太田にある太田茶臼山古墳だそうで、こちらは宮内庁が管理しているので一般の我々は容易に入ることはできない。それに比して今城塚古墳は宮内庁が関係していないので、誰もが古墳内に入ることができ公園になっていて、我々が行った時も、その公園内で市民がシートを広げピクニックのように弁当を食べていた。発掘調査や歴史考察も自由にでき今や相当のことがわかって来ているらしい。
 この古墳のある北摂、摂津の山々の麓(1970年に開かれた万博公園のある千里丘陵から天王山の合戦で知られる山崎までの間)には、今城塚古墳、太田茶臼山古墳の他にもたくさんの古墳んがあって、摂津は古代歴史の宝庫の様なところだ。
 摂津という地名も、古代の国際港であった難波津、住吉津(すみのえのつ)、大伴津、武庫水門(むこのみなと)など諸港が展開しまさに津を摂(お)さえる役割から来ているという。
 摂津の東北部、淀川中流域の北岸に広がる地域を三島というがその名前も、3世紀以来大和王権にとって重要な役割を果たして来た「シマ」の地域がいつしか美称を冠せられて「ミシマ」「御島」「三島」になったと言われている。しかし、現代の「三島」までは紆余曲折があって飛鳥時代の「三島評」(ミシマノコオリ)701年『大宝令』施行に関わって東半の「三島上郡」と西半の「三島下郡」に二分された。その後「島上郡」と「島下郡」に名称変更されたという。その後「三島」が再び郡名として復活するのは、なんとずっとのちの近代の郡制が施行された1898年(明治31年)のことである。
 「島上郡」で思い出すのは今から15年前に統廃合された大阪府立島上高校である。高槻南高校と統合され今は大阪府槻の木高校となっていて「島上」名前は消えてしまった。

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