私の歴史探訪 7.国うみの神話

7. 国うみの神話

 『古事記』『日本書紀』そして『秀真伝』、それぞれの初めにイザナギの命とイザナミの命の国や神を産む話がある。比較してみると面白い。

『秀真伝』の場合。

一姫三男神生む殿の紋

イザナミ命が「吾が身には成り成り足ら陰元(めもと)と称するもの一処あり」それに対してイザナギ命が「吾が身には成りて陽元(おもと)と称するもの一処あり。吾が身の陽元と汝の陰元と合わせて御子を生まん」とて夫婦和合して孕み受けて、月満ち女の御子を産み給う。諱を昼子と名付く成り。受胤時、父神が40歳では母神31歳、昼子姫3歳になる時厄年に当たるとして、「未だ三歳の愛育たらざれど、天岩楠舟に乗せ風に順って放棄し、父母神の厄穢隈を脱がるる成り。」とある。その後の「昼子姫」扱いが『秀真伝』の場合は温かい。

「金折命は『拾ったり』と曰し、鄙の西殿に於いて妻の乳をもって養育をなす。」とある。「西殿」は現在の西宮市広田神社のことらしい。古くは西宮神社と広田神社は同一神社であったらしい。古社廣田神社の浜南宮の内に鎮座した「えびす大神」は、漁業の神として信仰されていたらしい。現在、ヒルコ(蛭子)は西宮神社の祭神蛭子神でエビスと読ませている。

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この御神影(おみえ)、上はもともとこの家の神棚に私が引っ越してくる前からあったもので透かしが入っている、下のものは篠島恵比須御神影。各地様々なヴァリエーションがある。寛文3年(西暦1663年)江戸幕府4代将軍徳川家綱公の頃、西宮神社の御神影を『正像』とし許可され、全国各地で配札されてえびす信仰が広がりを見せる大きな契機になったと聞いたことがある。

 昼子命を生んだその後、「天照大神、月読尊、を生み、前に厄穢隈によって棄てた昼子姫は再び親神の元に戻り、その慈しに足り至る。故に自ら天の姉となり、振り降りて若姫尊と名付くなり。」ということでこの後も若姫の輝かしい役割(田畑にイナゴの被害が広がり農民が嘆いている時、瀬織津姫の計らいと若姫のワカの歌を唱え続けたことでめでたく退治できたこと)が記されている。しかも、若姫は結婚もする。 『秀真伝』一文より

「紀志伊国の稲田の穂虫により皆害を受けるなり。百姓は稲の痛むを嘆きて、ある本末を伊雑宮(イサワノミヤ)に告ぐ。」その時天照大神は御幸中で不在だったので、「中宮向津姫(瀬織津姫のこと)は民の嘆きを聴し召し、若姫の神と共に急ぎ伊勢より紀志伊国に行啓をなし給う。中宮は田の東に立ち玄参(オシクサ 、胡麻の葉草の根)を持って扇ぎ、若姫の神は歌を読みて祓い給えば、稲虫は忽ちにに去れり。この故に向津姫(瀬織津姫)は詔して、この歌を三十人の侍女を田の東に佇ませて、各々共に歌わしむなり。

田根畑根 大麦小麦大角 黒豆小豆らの稲葉も食めそ 虫も皆鎮む

繰り返し三百六十回詠い響(どよ)ませば、稲虫は西の海にざらりと飛び去り、汚穢を祓えば稲はやはり若やぎ甦るなり。」

「時に天照大神の勅宣りを受けて、金折命は船と共に和歌の国に至り、昼子姫と阿智彦命の婚礼の儀を整えり。昼子姫と阿智彦命は、天晴れて夫婦となれり。」

タイトルの「一姫三男神生む殿」四つの殿のはずが五つ殿があったらしい。それは昼子を産んだ後、夫婦和合して孕むが臨月を待たず、流産して路に泡の如くに流れる故に両神は嘆きて「これもまた、この数に入らず」と言って、葦船に乗せて流した。その意(こころ)は不快にして「吾が恥なり」アーハジと申す故、この島を名付けて泡路島と称す。らしい。この部分は『日本書紀』でも同じような記述がある。

天照大神男神

「一姫三男神」このタイトルからすると、一姫が昼子命すなわち若姫(女神)なので次に生まれた神、天照大神男神ということになる。これは『記・紀』との大きな違いである。天照大神男神であったという話は他にもあって、江戸時代の仏師、円空が寛文三年(1663年)男神天照大神を阿賀田権現(女神)と一対の関係神として彫像している。

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 因みに、子供を小舟に乗せて流し、誰かに拾われて大人物になるという話は世界のあちこちにある。例えば、我が岡山の「桃太郎」、エジプトで生まれてナイル川に流されたモーゼ、彼は王室の女性に拾われ、成人して虐げられたユダヤ人を率いてエジプトを脱出、あの「十戒」の主人公。写真はイタリア・ルネサンスミケランジェロのモーゼ像。

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秦河勝欽明天皇の時代、大和国初瀬の川に川上より一つの壺流れくだる。三輪の鳥居の杉の辺りにて雲客この壺を取る。中にみどり子あり。帝に届けたところ、帝の夢の中で彼は大国秦の始皇の再誕なりと名乗ったとか。その後長じて重用され、聖徳太子のブレーンになり京の太秦に居を構えてたという。

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川ではないが荒野に捨てられたギリシャ悲劇のオイディップス、彼は成人して、それとは知らず王である父を殺し母と交わるという悲劇の主人公、

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漂着したのち王になったという新羅の脱解伝説、探せばもっとあるだろう。

 

 一方、『古事記』ではイザナギ命、イザナミ命それぞれの身体を確認した後、「お前は右より巡り逢え、我は左より巡り逢おうぞ」といい二神は契り終えるとすぐに柱を巡りめぐり逢ったところで、イザナミ命がまっさきに「あなにやし えをとこを」と言いその後、「オナゴが先に求めるのは良くないことよ」と言いながらもそのまま秘めどころにまぐわいされて、なんとお生みになった子は、骨なしのヒルコである。この子は葦船に入れて流し捨ててしまわれた。ということだ。どうも、女性から誘ったのが具合が悪かったということらしい。

 この時代、というより『古事記』を編纂した八世紀頃の男女関係の価値観。今で言えば、男尊女卑。

 

 そしてさらに、『日本書紀』はさらに下世話な話になっていく。『日本書紀』原本現代訳 山田宗睦訳。

 オノゴロ島を国中の柱にして、男神は左回り、女神は右回りと分かれて回り、はたと顔を合わせた。と、女神が先に声をかけ、「ああ、嬉しいこと、美男に会えて」といった。男神は快くなかったようで、「わしは男だぞ。理(ことわり)ではわしが声をかけるべきなのだ。それなのに、どうして女が先に言ったのか。これは全く良くない。回り直すのがいい」と言った。こうしてやり直して交わり、夫婦となった。お産の時がきて、まず淡路洲(アワジノクニ)を第一子とした。意に沿わないところがあってアハジ(吾・恥)洲と名付けた。

 次に神々を生む。

天照大神月夜見尊、そして蛭児(ヒルコ)、最後に素戔嗚尊。ここでは蛭児は長女ではない。彼女は三年経っても足が立たなかった。それで天の磐楠船に乗せて、風の吹くまま棄ててしまったということだ。『秀真伝』とは随分異なり「ヒルコ」を誰も拾わない。

 因みにこの後、イザナミ命は火の神カグツチを生みやけどをして死んでしまう。イザナギ命は黄泉の国にイザナミ命に会いにいく。イザナミ命の見られたくない蛆のわいている身体を見てしまったイザナギ命は醜女・妖怪にしつこく追いかけられ桃の木に隠れ桃の実をなげる。かろうじて逃げ帰ったという。

まるでギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケの話のようだ。どちらも見てはいけないものを見てしまう悲劇。

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ユダヤの結婚式

 その結婚式では、花婿のまわりをきれいに着飾った花嫁がぐるりと回る、という儀式が行われる。地域によっては、きれいに飾った柱があって、そのまわりを回ることもあるという。これはユダヤ教の伝統の一つらしい。

「あなにやし えをとこを」、「あなにやし えをとめを」

このユダヤの結婚式は、天の御柱を回ったイザナギイザナミの結婚を彷彿とさせるものがある。・・・また、イザナギイザナミが柱を回った後、お互いに言った言葉である。・・・イザナミは、「あなにやし えをとこを」と言い、イザナギは、「あなにやし えをとめを」と言ったと「古事記」には書かれている。

一般的には、「あなにやし えをとこを」の意味は、「ああ、なんといいおとこなんでしょう!」という意味であり、「あなにやし えをとめを」は、「ああ、なんといいおとめなんでしょう」という意味だとされている。「アナニヤシ」という言葉だが、本当はどのような意味なのだろうか。これがヘブライ語だと意味が通るという。「アナニヤシ」という言葉はヘブライ語の「アニーアシー」ではないか、といわれる。その意味を訳すと「私は結婚します」という意味なのである。

もし「アナニヤシ」がヘブライ語の「アニーアシー」つまり「私は結婚します」という意味だとしたら、「古事記」のイザナギイザナミの結婚のシーンの言葉の意味は、「あなにやし えをとこを」(私は結婚します。素晴らしい男性と)、「あなにやし えをとめを」(私は結婚します。素晴らしい乙女と)となり、意味が通じるのである。