私の歴史探訪 9. 秦河勝という人

私の歴史探訪 9.秦河勝という人

3〜4年前に『秦河勝』と世阿弥の著した『風姿花伝』を読んだ。

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そこで、赤穂市坂越(さこし)で舟祭りがあることを知り、一昨年の10月、友達と一緒にその祭りを観に行くことができた。その祭りは、毎年10月の第二日曜日と決まっていて、昼前から夕方まで行われる。その日も幸い天気も良く、ほぼ全行程を観ることができた。

江戸時代初期に祭神である秦河勝が坂越に渡来した伝承を再現するお祭りとして始まったそうだ。神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。

大避神社で祭典が行われた後、浜辺までを猿田彦・獅子舞・頭人神輿の行列が練り歩く。そして、生島にあるお旅所まで櫂伝馬2隻を先頭に頭人船・神輿船など10数隻、計12隻に行列が乗りこみ海上渡御が行われる。また、重要無形民俗文化財にも登録されている。ここでも猿田彦が案内の神として出てくる。

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前にも、秦河勝に関しては少し(桃太郎のように川上から流れて来て拾われた。とか京都の太秦に居を構えて、聖徳太子に猿楽の面をもらったことなど)述べた。現在、よく耳にするほど、学校で歴史を学ぶ中ではポピュラーな人ではない。聖徳太子の側近として知られているが、実際、どのような仕事をしたのかはあまり資料がない。生誕時も定かでないので、初瀬川の上流から壺に乗って流れて来て拾われた物語にもなるのだろう。そして、聖徳太子没後、どういう事情か大阪湾からウツボ舟に乗って赤穂の坂越に流れ着いて神になったと伝承されている。後に河勝を神格化する装置のようなものだろうか。

 664年、赤穂・坂越の浦人が流れ着いた船を上げてみると、河勝は人間でない「もの」になっていて、諸人に取り憑いてタタリを成したという。それで里人はこの「変化(へんげ)のもの」を神と崇めたら、大いに国は豊かになったという。「大荒大明神」と名付けて大避神社に祀られ、地元では「おおあれだいみょうじん」と呼んでいるそうだ。こうして流れ着いたときはすでに亡くなっていたという説と、このとき河勝は八十三歳でしばらく流人として生活していた説などあって、定かではない。

 それにしても、河勝はなぜ祟るほどの恨みを抱いていたのだろうか。

そのへんの事情は梅原猛の『うつぼ舟1 翁と河勝』に詳しく論じられている。

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聖徳太子の強力なブレーンで、経済に明るい秦河勝と外交に明るい小野妹子(遣隋使で有名)、主要官僚として抜擢されていた。身分も帰化系の人間としては「造」(みやつこ)という低い姓を持ちながら「小徳」という今の日本の大臣に匹敵する位についていた。聖徳太子は、山城に盤踞して稲作・養蚕・織物・酒造などの産業を興して栄えている秦氏の経済力に注目したのであろう。

しかし、聖徳太子は亡くなり、河勝はその後ろ盾を失う。中臣(藤原)鎌足皇極天皇の嫡男・中大兄皇子とともに密かに蘇我一族の打倒を計画していて、蘇我の本家を倒すためには、まず太子一家を滅ぼし次に蘇我に繋がる人々を排除しようとした。このような政治の中で秦河勝流罪にあったのか自ら西海に彷徨い出たのか。

 近年、聖徳太子(574〜622)も後の世の創作かといった主張も見られたりする。王族で「厩戸王」(用明天皇の第二皇子)という人物はいたのだろうが、初めて「聖徳太子」という名前が登場するのは「懐風藻」(751年)においてだそうである。すなわち『日本書紀』(720年)よりも後である。太子の死後100年以上もの間、『古事記』や『日本書紀』の編纂があり、時の政権によって権威づけに利用されて、英雄に仕立て上げられたという説もある。

 この本の中で、興味深いことが書かれている。 

京都の太秦広隆寺というお寺がある。弥勒半跏思惟像のあるところである。秦河勝聖徳太子にもらったという仏像。

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広隆寺鞍馬の火祭、今宮神社のやすらい祭とともに京の三大奇祭の一つ。寺院に祭があるのは珍しいケース。十月十二日(古は陰暦九月十二日)京都嵯峨太秦広隆寺摩多羅神を祭る、これを牛祭という。仮面や飾りつけをしたまだら神が牛にまたがり、仮面をつけた四天王が松明を持って従い、境内と周辺を一巡する。薬師堂前で祭文を読み、これが終わると同時に堂内に飛び込む。五穀豊穣・悪魔退散を祈願する祭。と観光案内にある。また、広隆寺平安時代には秦公寺(はたのきみでら)と呼ばれ秦氏の氏寺と言われていた。

 梅原猛がこだわったのは、十二日という12の数字。この広隆寺は推古30年(622年)に秦河勝上宮太子聖徳太子)のために建立したと言われている。秦氏絡みのことがらにやたら12の数字が出てくるということだ。赤穂・坂越の祭礼「船渡御」に出る舟は十二艘、大避神社にある古井戸は十二本の石柱で組まれている。大避神社の祭礼を司ったのは河勝とともにかの地にやって来た十二人の家臣の子孫。この舟祭もかつては旧暦九月十二日に行われていたという。そして広隆寺には薬師如来とその脇侍の日光菩薩月光菩薩十二神将が揃っている。

この十二の謎はどこから来たか?以下も梅原猛の分析。

 『十二」という数は、ユダヤ教およびキリスト教において甚だ重要な「数」である。イスラエルの「十二」部族は、ヤハウェによってカナンの地を与えると約束されたアブラハムの孫・ヤコブの子を先祖とするものであり、またキリストも「十二」使徒を選んだ。

 一方、聖徳太子も、キリスト教の影が色濃くある。

キリストと同じように厩で生まれ、片岡山での復活物語、

(そのまま引用)『日本書紀』推古二十一年十二月の条

聖徳太子が片岡山にお出かけになったところ、飢えたる者が道のほとりに寝ていて、太子は姓名を問われたが答えなかった。それなのに太子はその飢えた者に食物ばかりか、衣装までも脱いでお与えになり、歌を詠んだ。 

  しなてる 片岡山に 飯に飢えて 臥せる その旅人あはれ 親なしに 汝生リけめや 

  さす竹の 君はや無き 飯に飢えて 臥せる その旅人あはれ

その翌日、聖徳太子が飢えたる者に使者を遣わせたところ、戻った使者は彼は死んだと言った。聖徳太子は大いに哀しまれ、墓を作らせて葬ったが、その後に聖徳太子は「この飢えて死んだ人間は凡人ではなく聖である」と言い、再び使者を遣わせてその墓を見させたところ、その屍はすでになく、ただ衣服のみが棺の上に置かれていた。それで太子は、その死者が着ていた着物を使者に取らせて常の如く着たというのである。

 

 確かにキリストの復活物語を思い出させる。

続けて例として挙げられているのが太秦広隆寺の鎮守社というべき、木島神社(このしま神社)の三柱鳥居である。この鳥居はネストリウス派キリスト教と関係があるとしばしば論ぜられて来た。また木島神社の「社伝」としても伝わっている。この三柱鳥居はダヴィデの星と関係する。あるいは『三位一体』クリスチャンのお祈りの時「父と子と聖霊の御名によりてアーメン」のこと。『古事記』の一番最初でも三柱の神が登場する。

アメノミナカヌシ

タカミムスヒ

カムムスヒ

この三柱のお方は一人神でいつの間にやその身を隠してしまわれた。

すなわち三柱で一人「三位一体」である。

古事記』のなかでこのことの明快な説明もなく消えて行く、この不思議。

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上宮王院には、大工さん奉納の額が沢山掛けられているが、その一つにはっきり、ダヴィデの星と深い関係にある五芒星が描かれている。あるいはキリストの父が大工であったことが、大工の守護神とされる聖徳太子と結びついたのであろうか。

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上宮王院に奉納された鉋。

 

坂越に行った時、仕入れた情報として、菅原道真が左遷にあって、都から降る時この坂越の港にしばらく逗留したらしい。あの有名な『東風吹かば …』はこの時の歌だとか。

坂越には菅原道真を由来とする地名が多く残る。

『901年(延喜元年)、九州の太宰府に左遷される途中に道真は、潮まちのため、坂越に小船をつけて立ち寄る(大泊・御泊(おおとまり))。歓迎の村人で大騒ぎになる坂越の様子に驚いた道真であったが、思わぬ歓待に心をよくし、暫く坂越に逗留する。道真は浜の岩(天神岩)に腰をおろし、集まった人々に、讃岐国国司をしていた時に見た塩造りの話や、京の都話などをして次第に坂越の人と親しくなっていった。』

道真公が去った後、人々は、天神山(北之町)の北野天満宮(現在は大避神社境内に移設)に道真公を祀る。有名な『こち吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』は、ここでは、道真公が坂越を離れる時に、坂越の山に咲く梅の花を眺めながら、京を思いつつ、詠んだ歌であるとされている。

秦氏については、いずれ別の角度から迫りたいと思う。