私の歴史探訪 10.お祇園さん

10.お祇園さん

私の住んでいる村、あえて村というが「なんとか村」ではない。れっきとした岡山市の市境のある在所。この村のはずれに「お祇園さん」と呼ばれている可愛い神社がある。小高い山の上にあって、途中、急な山道があって、歳いくほどにきつく感じる。というのも、毎年、七月十五日頃にその神社でお祭りがあって、その十日ほど前に村から神社に至るいわゆる参道の清掃活動が行事の中に組み込まれている。主に草刈機で雑草の処理。古くからの町内の人に聞くと、昔は、その清掃作業は子供たちの仕事らしかったが、今はほとんど年寄り(ほんと若者はいない)の仕事。お祭りの本番の参詣も時間が決められていて、事情がない限り全戸誰かが詣でること。と町内会で暗黙で決められている。時々、声で「神主さんも、我々もいつまでも上がれん、下に下ろすことはできんかのお…」、とは言っても、声高にそんな罰当たりなことは言えず、みんな頑張っている。実際、昔、いっ時、この神社を村近くまで下ろしたことがかあったが、村のあちこちに不幸が重なったことがあって、「こりゃ祟りじゃ」ということで慌てて神社を元に戻したそうである。

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 「お祇園さん」確かに京都の祇園祭と同じ日だ。祀られている神さんも「八坂神社」と同じ素戔嗚尊である。八坂神社の場合、慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるらしい。その辺の事情がもう少し明らかになればなあと思う。例えば、祇園=シオンなどの説(日ユ同祖論など、古代の日本がユダヤの影響を色濃く受けていたという説)に私も飛び付きたい気持ちになるのだが、ちょっと短絡な気がしないでもない。祇園のルーツをたどれば一説にインドの天竺地方に行くし、牛頭天王が祀られ出した経緯や、この牛頭天王がなぜ素戔嗚尊と合体したのか、どちらも神話上の神にしても、諸説溢れている。

 我が村の「お祇園さん」、我々はその謂れも内容も気にすることなく、村の鎮守としてありがたく拝んでいる。でも名前やお祭りの日、祀られている神などからすると京都の祇園と親戚みたいなものかなと思う。

そして、丁度村の反対側のはずれに、ちょっと鬱蒼とした小高い山の中に「春日神社」という神社がある。お祭りする時の神主さんは「お祇園さん」と同じ方である。あるときその神主さんに「この神社は奈良の春日神社と関係あるんですか」と尋ねると、「出張所みたいなものです」ということだった。天下の「春日神社」は今は「春日大社」と呼ばれ、藤原氏氏神で奈良・平城京に遷都された和銅3年(西暦710年)、藤原不比等藤原氏氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるという。我が村の「春日神社」の祀られている神は「天兒屋根命」(アメノコヤネノミコト)、この神はやはり藤原氏の祖神である。まあ、当然と言えば当然。

この神社の西1キロほどのところに「安仁神社」(あに神社)がある。古くは「兄神社」と称していたと伝えられることから、初代天皇神武天皇の「兄」に当たる五瀬命ほか二神を祭神としたもので、明治時代に定められたという。

その「安仁神社」で毎年七月十一日に「夏越しの祭り」があり、イベントとして「茅の輪くぐり」が行われる。これは「蘇民将来」という故事にまつわるもので素戔嗚尊牛頭天王・ごずてんのう)が主人公、だから京都・八坂神社の祇園祭の「茅の輪くぐり」が発祥かと思っていたら、全国各地で行われているらしい。近年、ポピュラーになって時々報道でも見かけるくらいだ。私も、五年前にこの安仁神社に「茅の輪くぐり」を見に行った。そしてそれが何たるかを調べたりした。私は信心深くはなくて、みんなと一緒にこの輪を潜るのがなんとも恥ずかしいと思ってしまう。結局、人のすることを写真に撮るということになる。

その物語、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、ある村の兄弟に出会い、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯(あわめし)などを御馳走(ごちそう)になった。そこでそのお礼にと、「蘇民将来之(の)子孫」といって茅(ち)の輪(わ)を腰に着けていれば厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。この神は祇園牛頭(ぎおんごず)天王とも習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也(なり)」などと書いた護符の類を蘇民将来といっている。伊勢(いせ)地方などでは家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連(しめ)をかけて災厄除(よ)けとしている例も多い。

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そもそも、この安仁神社には素戔嗚尊牛頭天王も祀られていないけれど、ひょっとして近年の各地のイベントのノリでこの茅の輪くぐりを始めたのかなと思う。というのもこの神社、三十年程前はほとんど人も来ない、神主も通いの荒れたものだったらしい。しかし、近年、住職もここで暮らすようになり、管理や経営に力を入れるようになって大いに復活をした。という。

地元の人からもそのような話を聞いたが、それを裏付ける何十年(多分、四十数年)も昔の記述を見つけた。

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 ある日、古本市で見つけた本「吉備の古代王国」鳥越憲三郎著(昭和49年6月20日初版)、たまたま目に止まったのは岡山の歴史だからだし、ことさら目のついた著者の鳥越憲三郎さん、私の大学生の時の教養・歴史の先生。若者の心を掴む話術が上手だった。授業も面白かったのを思い出す。その懐かしさからこの本を買うことになった。この本の中で、「安仁神社」のことに言及してる部分があった。引用すると、

 岡山県には式内の名神大社が三社ある。吉備一族の発祥の地である備中国吉備津神社の他に、一つは美作国津山市にある中山神社、もう一つが今では岡山市西大寺となっているが、もとの邑久郡に鎮座している安仁神社である。

 それは南部にひらけた沖積平野の奥まった丘の一つ、宮城山麓に立っている。平野を取り巻く丘陵には、いくつもの貝塚遺跡とともに、古墳も密集している。この神社こそ正しく吉備海部直が、古来から奉斎してきたものである。 

 明治後の社格では国幣中社になったが、参詣者はほとんどないようである。夕暮れ前に詣ったとき、一人だけいた神主さんが終バスに乗るからといって、質問する暇もなく帰ってしまった.しかし、社殿はめずらしく華奢なつくりで、人気のない境内から去り難い思いであった。

 祭神は古くから安仁神として伝えてきたが、いつの間にか社記では安仁=兄と解して、神武天皇の兄にあたる五瀬命だというようになった。そして神武東征の時、この地にしばらく滞留されたという説明までつけられた。とんでもない祭神をつくったと言いたいが、それはさておき、吉備一族の祖神でないことだけは確かである。吉備一族の祖神が祭神であれば、国幣社ではなく官弊社になるし、姓も直ではなく、吉備海部臣となるはずである。(以上引用)

 因みに、祭神の五瀬命、神武東征の一回目大和を攻める時、河内で長髄彦に阻まれその戦の時命を落としたと言う。その敗因は陽の神の末裔と言われている神武が太陽(東)に向かって攻めたのがいけなかったと反省、再度攻めるのにぐるりと熊野・伊勢の方からさしたる抵抗もなく大和に入ることができたという。そこで、かつて軍を整える為に逗留した吉備の地に兄をお祀りしたという。

 これに似た話は他にもあって、

 瀬戸内市牛窓の言い伝えによると、仲哀天皇神功皇后は当初より三韓征伐に赴かれる予定で西下されるが、事前にその情報をキャッチした三韓の王が王子の唐琴を派遣し、途中で阻止しようとする。そして天皇、皇后の船が牛窓沖にさしかかられた時に、唐琴配下の強将で魔法を操る塵輪鬼(チンリンキ)が頭8つの真っ赤な怪物となって襲いかかった。天皇はその怪物を弓矢で射殺され、怪物は分かれて海に落ち、胴が前島、首が黄島、尾が青島になったということだそうだ。 しかし天皇も唐琴の軍から放たれた矢によってお亡くなりになり、唐琴もまた皇后によって射殺され、以来この海は唐琴の瀬戸と呼ばれるようになった。一説に、仲哀天皇牛窓の地で亡くなり、その墓が古墳として牛窓にある。

古代から瀬戸内の海は大街道で、潮待ちなどで瀬戸内沿岸は何某かの歴史的事柄が豊富である。

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牛窓天神山古墳

 

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八坂神社の茅の輪

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安仁神社の茅の輪くぐり

この茅の輪を「蘇民将来蘇民将来蘇民将来」と三回唱えながらくぐり、境内を大きく行列が八の字を描いて、それを三回繰り返す。そして、藁(ワラ)をもらって輪にして持って帰り、家の表に掛けておく。それで災いから逃れられる。それが一般的な流儀だそうだ。