私の歴史探訪 11.瀬織津姫

11.瀬織津姫 ①

古事記』、『日本書紀』に出てこないのに、よく耳にする神さん。と言ってもこの名前を知ったのは、最近、数年前のことである。

円空瀬織津姫』菊池展明著を読んでからである。

f:id:AchiM:20200610203332j:image

古事記日本書紀』が編纂されるまでは国中どこにでも祀られていたらしくなんらかの事情で、消されるか低い地位に格下げられた、ある意味哀れな謎深き女神、ということで最近はアニメの世界でも注目を浴びているらしい。

この本『円空瀬織津姫』は、江戸時代前期の修験僧・仏師・歌人である円空がその瀬織津姫を求めて全国を行脚したその追跡の書と言えるのではないか。その瀬織津姫、『秀真伝』では度々登場するが、なんと天照大神中宮として。これは大事である。普通、天照大神が「男神」で奥さんもいたなんて誰も知らないし。前にも書いたけど、円空天照大神を「男神」として彫像し「阿賀田大権現」とセットで世に出している。『秀真伝』では天照大神の相手が「瀬織津姫」となっているので「阿賀田大権現」との関係はどうなっているのだろう。

円空が『秀真伝』のことを知っていたのかどうかはわからないが、天照大神が「男神」であるという認識はあったようである。

昨年、誘われて総社市にある神明神社のお祭りに行った。友達の知り合いが巫女として神前で舞うのを見ていた。

f:id:AchiM:20200611105740j:image

総社市 神明神社

 

f:id:AchiM:20200611105028j:image

そして神主が祝詞をあげ始めて意味もわからずぼんやり聞いていると、いきなり「瀬織津姫」という言葉だけ耳に飛び込んできた。祝詞は幾度か聞いたことはあるが、いつも祝詞の何たるかを考えたこともなく、もちろん内容・意味は今もわからない。が、すぐにそのテキストをもらい、「瀬織津姫」という言葉を確認した。なんと新鮮な響き!家に帰って、確かこの家にも祝詞らしきものがあったような気がして、探してみるとやはりあった。ボロボロになって崩れそうな冊子。古い家ならたいがいあるんだろうな。だから、「瀬織津姫」はどんな神かはともかく名前は古くから吟じられてきたのだ。ただ、他の神々に混ざってサラッと呼ばれるだけの存在。

f:id:AchiM:20200610204724j:image  f:id:AchiM:20200611105601j:image

瀬織津姫(せおりつひめ)は、神道大祓詞に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記日本書紀には記されていない神名である」(ウィキペディア)とある。

神道大祓詞(おおはらえことば)に「祓戸四神」の筆頭として登場する女神。しかし、古事記日本書紀には登場しない。それは、記紀編纂以来のタブーである「天照大御神男神」の領域に入ってしまうことになるから。突っ込んで研究され、もしそれが公式に認められれば… 我々の歴史の世界は、天皇制に依拠している我々の価値観はどうなるか?ということだろうか。

滋賀県大津市に佐久那神社がある。瀬織津姫を含む祓い戸四神が祭神である。

社伝によると、天智天皇八年(669)、朝廷が明日香より大津宮へ移ったのを期に、天皇の勅願によって右大臣中臣金連を勅使とし八張口(桜谷)で修祓した地に神殿を設け、「祓戸大神三神」を祀ったのが当社の創祀。とある。
現在は、祓戸四神を祀っている。社伝によれば、

 

 大祓詞祝詞)に、「佐久那太理 爾落多岐都 速川乃瀬爾坐須 瀬織津比賣登云布神」とあり、
この「佐久那太理」が、当社社号・佐久奈度であるといい、「中臣大祓詞創始の社」。瀬田川が湾曲して激しく流れる「裂けた谷」(佐久那太理=桜谷)の地に祀られた祓いの神。桜谷の地名から、桜谷社・桜田社、あるいはミタラシ社とも呼ばれ、仁寿元年(851)六月十三日、名神に列し、貞観元年(859)正月二十七日に従五位上の神位を授けられた古社で式内社・佐久奈度神社に比定されている神社。

 

平安時代より、天皇の厄災を祓い平安京を守護する「七瀬の祓所」の一として著名な神社。朝野の崇敬篤く、後白河上皇から社領の寄進を受け、豊臣家臣渡辺勘左衛門、膳所藩主本多康俊、石川忠総などからも社領の寄進があったという。

天ヶ瀬ダム築造で、水没の危険があるため河畔にあった社殿を、昭和三十九年、現社地に遷座した。旧社地は、鳥居を右手に降りた駐車場で、河岸にある大銀杏より少し境内寄りの場所だったようだ。

 

瀬織津姫」を知るにつけ私が引っかかるのは、瀬織津姫が締め出されるその時期である。その時期は『古事記』『日本書紀』が編纂される七世紀の終わりから八世紀の初めにかけて、ちょうど高島の大処神社が創建された頃である。その頃権勢を奮っていた中臣鎌足、その子藤原不比等そしてその子、藤原武智麻呂の時代である。

円空藤原氏の出だという。以下、『円空瀬織津姫』からの引用。

 

円空上人、姓は藤原、氏は加藤、西濃安八郡中村之産也」出生地の「西濃安八郡中村」は現在の安八郡輪之内町十連坊のあたりとみられるが、あるいはここから三キロほどしか離れていない羽島市上中町の、いわゆる円空出生地を早くから主張してきた中観音堂あたりを当該地と見てよいのかもしれない。加藤氏が現在もたくさん住んでいて、今は六体の円空彫像しか残っていないものの「観音堂のある中屋敷の加藤一統は、念持仏としてどの家も円空仏を持っていた」とされる。(中略)

 円空荒子観音寺の円盛に、自分は藤原氏の末裔であると明かしたことは、円空(の思想)を考える上で、とても重要である。円空の祖に瀬織津姫を大祓の神に仕立てた藤原鎌足、そして瀬織津姫という神の各地祭祀の消去に腐心・奔走した藤原不比等がいるということは、円空を複雑な心境に追い込んだに違いない。(以上引用)

 

そして、都合の悪い神名を消去したり、改変したり、別の神と入れ替えたり(今風に言えば「捏造」)をこの「円空瀬織津姫 下」で菊池展明氏が分析している。

その中で、室町時代の「帝王編年記」の養老七年(723)の条に記されている、淡海の伊吹山(1377m)と近くの浅井岳(現在、金糞山と呼ばれていて1317mの高さ)の背比べで、浅井丘が負けて首をはねられて琵琶湖に落ちて竹生島になったという古くからの伝説が語られる中で、それぞれの山神の名があり、伊吹山は夷服岳神、その姪が浅井丘にいる浅井比咩命。この「夷服岳神」と記され、朝廷に服属しない、あるいは服属した夷の神といった意味の命名がなされている。これは古く『記・紀』がが規定してきた政権の否定的な路線からであろう。竹生島について後に別の角度から探究してみたい。

伊吹山の神、(『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた)は日本武尊を死に至らしめた神で、皆が恐怖した山を、後のこの時代、藤原武智麻呂山麓の民の警告を振り切って、途中、「蜂」の襲撃を受けながらも山頂に立って、そこで終日、眼下の近江国の景色を楽しんだとされる。近江国守になった藤原武智麻呂の支配者気分を満喫したのかもしれない。

 f:id:AchiM:20200613102755j:image

伊吹山の頂上から。目の前を雲が行く。

 f:id:AchiM:20200613103043j:image f:id:AchiM:20200613103130j:image

頂上の彫像は日本武尊

2007年8月9日 その年の春(3月25日)父が亡くなって弔いで伊吹山に登る。私は神妙な気分で父の生誕の地長浜市、その先に浮かぶ琵琶湖の竹生島を眺めた。丁度気持ち良くハングラも浮かんでいる。

f:id:AchiM:20200613105553j:image

父が描いた伊吹山と、父が残したコメント。

 

さて、話を「瀬織津姫」に戻すと、

伊吹山の麓に「平野神社」がある。宝亀九年(778年)創建、祭神は素戔嗚尊

f:id:AchiM:20200613140836j:image

「榊の宮」ともいう。古へ境内に榊の大樹繁茂していたので其の名を得たという。弥高山(平野神社のあるところ)は近江の古き名所。

この平野神社の前は「榊の宮」であったという。平野神社の境内には「榊の宮」の異称は「賢木の宮又は伊吹榊の宮」であったとし、また「この榊の樹は霊験あらたかで神木と崇められ」「当時は朝廷の賢所で御神楽や新嘗祭が行われる時は神のお告げで弥高山のこの神木を遥かなる都の地より拝むことが例年の慣しであった」と刻まれている。

f:id:AchiM:20200613142423j:image

円空瀬織津姫」によれば、この「榊=賢木の神」は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)のことで、この神こそ「天照大神荒魂」とされた伊勢秘神、つまり瀬織津姫神であったということだ。