私に歴史探訪 12.瀬織津姫

12.瀬織津姫 ②

瀬織津姫をさらに深めたいと思って、材料をあれこれ集めてまとめようとするが、謎だらけの女神。

『秀真伝』と同じように、八世紀の神の系譜の政治的な統廃合の嵐によってあるものは名前を変え、あるものは降格させられ、そしてあるものは消されてしまった、ということだろうか。

 厳しい監視や圧力があったとは言え、民の心の奥までは支配しきれないだろうから、人々の老獪な工夫で残存してきたものも少なからずあるはずだ。現に、記紀にそのままの名では記されることのなかった瀬織津姫という神だが、現在、この神をその名のまま祀る神社は全国に400社はあると言う。

 古代の生活、農業、漁業、林業などの第一産業に携わる人たちは、自然条件にモロに影響を被る人たちでしかも人数も最も多かったと思われる。其のような人たちを精神的に支えていた神が、それぞれの村、共同体にはそれぞれの条件にあった神が存在していただろう。

例えば農業であれば、まず水、旱であったり、逆に洪水、治水は民の命の源、そんな中で生まれた、もしくは招き入れた神がいた。それぞれの業種によって勿論祀られる神の性質も変わるだろう。それから蛇が対象になっていることも多い。私は三年前に稲作の経験をした。田に水を張るとすぐに畔に蛇が出てきた。自動車道路ではたびたび車に轢かれている。家でも庭や蔵でしょっちゅうお目にかかる。田舎では、ほんとに蛇が多い。そりゃ神さんにもなるなあと思う。そんな川や田、水に関わる神、それが瀬織津姫神であることが多いという。

 「川濯神」という神、地域によって読み方が違う。「かわそ」、「かわすすぎ」、「かわすそ」など。その音の「そそ(すそ)」同義の「川下神」の「しも」から、まさに「下(しも)」の病の神があったりする。

f:id:AchiM:20200614225713j:image

高島市 唐崎神社

瀬織津姫が川濯神・川裾神として祀られる(その神名が消去・変更されずに祀られる)祭祀を拾えば、近江国の琵琶湖周辺に行き着く。と「円空瀬織津姫」(上)北辺の神への鎮魂 の項にある。以下引用

「川裾さん」親称をもつ唐崎神社(西宮神社境内内社、滋賀県高島郡新旭町:現高島市)、「川裾宮」に異称を持つ、これも唐崎神社(滋賀県高島郡マキノ町知内:現高島市)、大物主神と並祭される河濯神社(長浜八幡宮境内社長浜市宮前町)などである。特にマキノ町の唐崎神社は、もともと大川神社で天智時代の前にまで遡る祭祀を由緒としている。

 瀬織津姫神が大祓神としてその名を刻まれる「六月晦大祓(中臣祓)」という大祓祝詞の創作は、まさに天智時代のことで、天智八年にまで遡る。この大祓祝詞は、佐久名度神社(滋賀県大津市大石中町)において中臣金運(のちの天智朝の右大臣)によって作られたとされる(佐久名度神社由緒) 以上引用。

大津市の佐久名度神社

f:id:AchiM:20200614174301j:image  f:id:AchiM:20200614174318j:image

淡海帝(天智)八年(669)、 朝廷が明日香より大津宮へ移ったのを期に、 天皇の勅願によって右大臣中臣金連を勅使とし 琵琶湖から唯一流失する瀬田川宇治川)の八張口(桜谷)で修祓した地に神殿を設け、 瀬織津姫神を策定した。「祓戸大神三神」を祀ったのが当社の創祀。 現在は、祓戸四神を祀っている。(佐久名度神社由緒)

このように見れば、瀬織津姫はこの神社に立派に祀られているいてホッとしそうだが、その事情はそのような事ではなさそうである。

 神宮祭祀から瀬織津姫を分離し、ただ大祓神としてのみ生きる場を限定しようとしたのだろう。その動きは途中、壬申の乱(672年)があり、中断して見えにくいが、瀬織津姫を大祓神とみなしたということは、神宮の元神祭祀への敬意とは反するものである。壬申の乱後、大祓を宮廷行事に定着させたのは天武天皇だったという。

「六月晦日日大祓ト云フハ、百官悉ク朱雀門ニ集リテ祓ヲシ侍ル也。六月十二月両度ナリ。天武天皇ヨリ始ル」…『公事根源』

瀬織津姫の受難の本格化は天武・持統時代以降に顕著となるも、その始まりは壬申の乱の前に遡るということである。

淡海帝八年といえば、高島の大処神社の創建の前の年である。その淡海帝(天智)九年の『日本書紀』に次のような記述がある。

 (天智九年)三月甲戌朔壬午(九日)に、山御井の傍に、諸神の座を敷きて、御幣を班つ。中臣金運、祝詞を宣る。

「山御井」というのは長等山で「御井」は三井寺の「御井」、つまり天智・天武・持統天皇ゆかりの「御井」のことである。「山御井」の周りには、おそらく畿内の「諸神」が集められ、中臣金運によって「大祓」の祝詞がここで初めて「宣」(の)られたという。天孫降臨の思想はすでに大祓祝詞に刻まれていたはずで、天皇大権に服属しない「神」は「荒ぶる神」として祓われる、ことを宣言した、という記述なのだろう。

瀬織津姫が登場する部分の読み下し文。

高山の末。  たかやまのすえ。
低山の末より。  ひきやまのすえより。
佐久那太理に落ち多岐つ。  さくなだりにおちたきつ。
早川の瀬に坐す。  はやかわのせにます。
瀬織津比売と伝ふ神。  せおりつひめといふかみ。
大海原に持出でなむ。  おおうなばらにもちいでなむ。
此く持ち出で往なば  かくもちいでいなば
荒潮の潮の八百道の八潮道の  あらしほのしほのやおあひのやしほじの
潮の八百曾に坐す。  しほのやほあひにます。
速開都比売と伝ふ神。  はやあきつひめといふかみ。
持ち加加呑みてむ。  もちかがのみてむ。
此く加加呑みては気吹戸に坐す  かくかがのみてはいぶきとにます
気吹戸主と伝ふ神。  いぶきどぬしといふかみ。
根国底国に気吹放ちてむ。  ねのくにそこのくににいぶきはなちてむ。
此く気吹放ちては根国底国に坐す。  かくいぶきはなちてはねのくにそこのくににます。
速佐須良比売と伝ふ神。  はやさすらひめといふかみ。
持ち佐須良比失ひてむ  もちさすらひうしなひてむ
此く佐須良比失ひては。  かくさすらひうしなひては。
今日より始めて  けふよりはじめて
罪と伝ふ罪は在らじと。  つみというつみはあらじと

瀬織津姫が登場する部分の祝詞の現代語訳。  以下、国学院のホームページから引用。

このようにすべての罪をなくしてしまおうとして、今日こうして朝廷において大祓の儀式を行って、祓い清めて下さる罪(具体的には罪を付けた祓えの品物)を、高い山や低い山の頂から勢いよく落下してさか巻き流れる速い川の瀬においでになる瀬織津比咩という神様が、川から大海原へ持ち出してしまうであろう。このように持ち出して行ってしまえば、激しい潮流の沢山の水路が一所に集合して渦をなしているところにおいでになる速開津比咩という神様が、それをかっかっと音を立てて呑み込んでしまうであろう。このようにかっかっと呑み込んでしまえば、息を吹きだす戸口の所においでになる気吹戸主という神様が、それを地底の闇黒の世界(根の国・底の国)へ息で吹いて放ちやってしまうであろう。このように息で吹いて放ちやってしまえば、地底の闇黒の世界においでになる速佐須良比咩という神様が、それを持ってどこともしれずうろつき廻って、ついにすっかりなくしてしまうであろう。(以上引用)

 

 七世紀〜八世紀 この時代、民の支配は外に対する武力以上に神威が必要であったのだろう。

『湖北の神々 II  水沼三女神の受難』山田郁郎著 の中に、我が(父の)故郷『東淺井郡』のことが記されている。もともと「浅井田根」としてあった所を680年頃、設置されて淺井郡、後になって、朝廷の首脳部は水沼神対策上、淺井郡内に割り込んで急遽、伊香郡の設置を決定したのである。そこで条理の南北線は折れ、さらに淺井郡が東西に二分される結果となった。

 因みに、私が学生の頃(50年以上昔)、書類を書くのに本籍を書かねばならなかったことがあって、「滋賀県東淺井郡びわ町」とたびたび書いた記憶がある。

 以下引用

伊香郡が設置されて最も難しい立場に立たされたのは、郡司を命ぜられた者である。新郡司の立場は中央の神祇政策と同じ立場であり、加えて「由緒ある家柄」でなければならない。というのは事が信仰の衝突だからである。さらに中央と政治的に直結した、強い権限がなければ対処できないであろう。伊香郡建郡の目的は、誇張して言えば水沼神に対する信仰支配だからである。この頃はまだ天照大神の神威は、地方に及んでいない時代である。従って郡司自らも霊異を祖先にもつ神の子として望まなければならなかった。問題が武力で解決できる性質のものではなかったのである。(以上 引用)

 

思えば、この大祓祝詞が作られた丁度同じ時期に、高島の大処神社が創建されている。創建の神主さん、和仁古葉束さんの名前の葉束、私の勝手な類推だけど「榊の葉っぱの束」だったのかなあと思う。「榊」は『秀真伝』によれば、先ずこの国の国中に榊の木を植えたそうだ。