私の歴史探訪 15.牛頭天王

15.牛頭天王 ①

隣町の昔の街道沿いの家や、牛窓の古い街並み(潮待ち唐琴通り)の家々の玄関の鴨居の上に、大阪から来た私には珍しく思えるお札が貼ってある。

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「牛王宝印」というお守りらしい。

本蓮寺というのはこの通りにあるお寺で、昔、朝鮮通信使が来たときに一行を宿泊させたという。

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本蓮寺の三重塔

最初、牛窓だから牛のお守りかなと思ったが、何処にでもあるらしくて、ネットで「牛王宝印」と検索すると楽しくなるほど色んなデザインのものがある。地域、地域の神の特性をデザインして意匠創作力に感動する。牛の王であったり、牛の玉だったり何か意味があるのだろうか?一説に、薬の「牛黄」に関係しているともあった。

調べてみると、鎌倉時代後半に庶民の間で普及し始めた「牛王宝印」のおまもりを家中に貼るようになったらしい。この牛の文字は、牛頭王から来ているのだろうか?

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熊野那智大社の牛王神符。

熊野では神の使いとして烏を位置付けられている。神武天皇を吉野まで道案内したという伝説の熊野の三本足の八咫烏(やたがらす)かな。今や日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。もとを辿れば、大正10(1921)年に大日本蹴球(しゅうきゅう)協会として設立された日本サッカー協会は昭和6年から、八咫烏をシンボルマークとして使用している。これは協会創設などに尽力した漢学者、内野台嶺(たいれい)(1884~1953年)の発案だったといわれる。らしい。

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埼玉県・飯能市高山不動尊(長覚寺/高貴山・常楽院)の江戸期の牛王宝印/牛玉宝印。

デザインの凝ったものもあり、コレクションしたくなる。その為には津々浦々お参りに行かなくてはならないけど、最近、出不精になった私にはちょっと無理かなあ。

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関係ないけど、何となく思い出した。私が数年前に描いた絵「カラスボール」。我が家のお守りに?いやいや、牛王宝印に失礼か。

ウィキペディアによれば、

熊野本宮大社の牛王神符については天武天皇の白鳳11年の記録が残っている。熊野牛王符が起請文として使われた最古の記録は、奈良東大寺に残る。鎌倉時代中期の文永3(1266年)のもので、僧侶の間で紛争が起き、熊野牛王符に誓ってそれを解決したとある。

牛頭天王」とこの「牛王宝印」との関係「牛」と「王」が共通なだけで、明快な資料も説明もなかなか見当たらない。

 

一旦「牛王宝印」から離れて「牛頭天王」のことを追及しようと思う。

 同じ牛窓町内・紺浦というところに通称 疫神社、素戔嗚神社がある。「オヤクジン様」と呼ばれている。かつて、疫病が流行ったとき牛窓神社の境内に祀られていた牛頭天王社を現在地に勧請したという、これが元で疫神社と呼ばれたらしい。牛頭天王素戔嗚尊は「蘇民将来」の逸話も持っていて「疫病を追い払う」神でもある。

 この神社は唐子踊りで有名な神社である。この唐子踊りは選ばれた稚児達が踊り、10月の牛窓秋祭りに紺浦の氏神である疫神社など、地区内4箇所で奉納される。この社の案内に、踊りの衣装、歌、踊りの動作は李朝時代の朝鮮の面影がみられ、江戸時代の1607年から1811年の200年あまりの間に、徳川将軍の襲職慶賀などのため前後十二回にわたり朝鮮から訪れた使節団が江戸往復の途中、牛窓へ十七回も寄港しておりその一行が伝えたものらしい。と少し不確かだ。それに唐子踊りと疫病封じの素戔嗚尊とは直接の関係も無さそうだけど。

 我が村の守神、お祇園さんの祭神も素戔嗚尊であり、本当にどこでも素戔嗚尊なんだろうかと思っていたら、実際畿内や西日本に多いらしい。九州、島根県をはじめとする日本海沿岸地方、ひろしま、岡山、きんき、和歌山など畿内と瀬戸内海沿岸地方に多くみられるという。

日本書紀』の神代の第七段一書群(第二)に素戔嗚尊は天を下って安芸(広島県)の国の可愛の川(エノカワ=江の川)のほとりに到着した。そこに神がいた。名を脚魔手魔(アシナズテナズ)といった。この可愛の川は中国山地を超えて日本海と瀬戸内海の両海に注いでいる。日本海側は島根県石見地方で川の名は江の川(ゴウのかわ)という。瀬戸内海側の下流にあたるところが鞆浦である。そしてこの川の流域には素戔嗚尊を祀る神社が非常に多いという。地図を見て川の流れを確認したが、丁度分水嶺にあたるのは広島県三次(みよし)市辺りで、そこを下り、高田郡吉田町(京都祇園社社領地らしい)を江の川、東南に向かう馬洗川と上下川に分かれている。そのあと芦田川となって鞆の浦に注ぐ。ちょっとややこしいが繋がっていた。出雲と瀬戸内海を結ぶ流れがあって神話も沢山あって古代歴史の舞台の一つだったのだろう。その川の流域に小童祇園社(ひちぎおんしゃ)と言われた須佐神社(旧称牛頭天王社・祭神は須佐之男命)があり、この社のの伝承に「牛頭天王は一羽の白い鳩に導かれて竜宮へ行きそこで頗梨采女と結ばれて八人の王子をもうけた」とある。

 ここでも「牛頭天王」と「素戔嗚尊」がくっついてくる。しかし、『新羅神と日本古代史』の出羽弘明は「素戔嗚尊牛頭天王武塔神などはもともと別の神である。たまたま渡来の人々の信仰、仏教、陰陽道道教などが入ってきて神仏習合の形で同一の神とされているのだ」という。

 

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牛頭天王はそもそもインドの祇園精舎の守護神で仏教の神でどこかで素戔嗚尊と同一視されるようになった。

京都の祇園社の「社伝」によれば「貞観十一年(869年)悪疾流行にあたり日本六十六ヶ国の数に準じて六十六本の鉾を作って牛頭天王を祀り、これを神泉苑へ送ったのが祇園御霊会のはじめであるとされている。

 

国慶尚北道の高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山があったという。現在の加耶山。加耶山は、古代には「牛頭山」と呼んでいたという。「牛頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」。その山が「牛頭山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだといわれている。そして『八坂郷鎮座大神之記』には斉明天皇二年(656年)、韓国の調進副使・伊利之使主が再来した時に新羅の牛頭山に座す須佐之雄尊の御神霊を斎き祀り我が国に遷したと記載されている。

 素盞嗚尊と高霊邑が深い関係があることは間違いないであろう。素戔嗚尊のが初めから牛頭山にいたのか、日本からあちらに行って霊が日本に帰ってきたのは定かではないが。

また『日本書紀』にも高麗からの遣いの記述があって「スサノオ五十猛神と共に新羅国のソシモリに降りた」とある。朝鮮語の「ソシモリ」は日本語の「牛頭」。

もう一つ、面白い説がある。

それはのめり込んで少し長くなりそう。次回に挑戦しよう。