私の歴史探訪 20.阿知使主

20.阿知使主(アチノオミ)

今、私が住んでいるところ「阿知」(この響きが好きだ。)、その歴史や謂れが気になっている時、歴史上の人物「阿知使主」のことを思い出した。この阿知使主は、私が学生時代を送った池田(池田市)とも関係のある人なのだ。

岡山市東区上阿知の春日神末社 阿知神社という記録がある。

前にも少し触れた、春日神社(岡山市東区上阿知)は古来阿知村桜田に鎮座していた阿知神社を現在地に奉遷したものらしい。祭神は春日神社だから、藤原氏氏神の天 児屋根命である。

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春日神社のお祭り
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古い記録に、「当社旧跡同所の内字ナ桜田といふ地にありて、古宮と云伝へたり。天児屋根命は太古に朱 桜を用ひ給ひし事、記紀に見えたれば、旧社地桜田は大に縁故ある所なりけり」とある。末社阿知神社の祭神は不明である。倉敷市にある阿智神社は祭神は「宗像三女神」だからひょっとして同じだったかもしれない。末社の意味は、平安時代迄に関係者 が全員移転し、阿知の地名のみが残されたものであるという。そして移転先も不明である。倉敷市の阿智神社の祭神が「宗方三女神」なのは、

応神天皇41年(四世紀頃)阿知使主と息子の都加使主を呉へ派遣して兄媛、弟媛、穴織(アヤハ)、呉服(クレハ)を連れて日本に帰ってきた時、筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろな乞いに断ることが出来ず、兄媛をおいて、ほかの三人をともない摂津の国に着船した、その宗像氏とのヨシミからだろうか。

 阿知使主は漢人とも言われていて、

中国の昔、漢より魏へと政治の実権が移り、漢の霊帝四代目の曾孫である阿知使主及びその子都加使主、追われて、帯方と言われていた北中国から北鮮の辺りまでたどりつき、部下と共にここに宮城をつくり住むことにした。しかしそこでも安住出来ず、応神20年、阿知使主は一族のもの、自分の子都加使主、その妹の迂興徳(うこうとく)と、部下七姓(七つの色々の姓の人)の十七県の部下たちをつれて渡来した。阿知使主は倭漢直の祖であるという。

 摂津国武庫浦に着船した時、応神天皇崩御の報に接した。
 仁徳元年

 阿知使主は仁徳天皇に仕えることになり天皇はその功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び池田、豊中一円)を領地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪名津彦の神を祀った。
阿知使主はこの地に織殿・縫殿を建て、盛んに機織・裁縫の業を興すこととなった。呉国へ随伴せる百二十六名中四十二名は、阿知使主の一族で、みな漢氏を名乗る人たちで、地内全般の治安、行政に任じ、一族挙げて我国の機織、裁縫の業発展に専念することになった。
 そこで、仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、採取した繭を全部この織殿に納めしめられ、糸につむぎ、染色、加工され、上は宮中の服飾より、国民の男女、四季、階級に応ずる服制を定められて全国に配布されると同時に、各地より婦女子を集めて穴織の織殿にて綾羅(りよらお)を織る業をはじめ裁縫の道を教授させた。
 ここに於いて穴織の織殿、縫殿は日に日に教えを乞う者多くなり弟媛をはじめ阿知使主の家臣十二名其の他もあげて穴織の織殿を援助し、生産、教育に励んだため、この道いよいよ盛んになり、全国所々に精巧なる織物を産するに至った。そしてここに難波猪名の津(津は大きな町)が開かれることとなった。
 都加使主、穴織媛、呉織媛の死後、天皇は両媛の功を多として、仁徳天皇七十七年己丑十一月十三日、勅定により神社を建て、御鎮座式を執り行った。これより呉織の里と呼ばれたこの地を「伊居太」(イケダ)と改め、当神社を 秦上社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称し奉ることとなった。「池田」の由来だろうか。

382年(応神16年)に弓月君が一族郎党を率いて来朝している。機織りを職とし、秦氏の先祖であるという。阿知使主はその4年後に来朝し同じく機織りを職とし、秦氏の先祖といわれている。どのようにつながっているのか?

 池田市五月山の南側麓に東畑というところがあって、一時私はそこに住んでいたことがあった。ちょっと小高くなっていて、そこからは大阪の街が一望できて、目の前はまさに一面畑が広がっている。天気の良い日、夕刻、西陽で海が光るのが見えた。夜は夜景が素晴らしい。

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池田市東畑からの夜景

多分、秦氏の人々がここに住んでいたんだろう。その東畑を南に一キロ程降っていくと、そこが呉羽の里である。行政の地名ではなくバス停の名前として残っている。一方、呉服町としての町名は阪急電車池田駅の南側にあって呉服と書いて「クレハ」と読む。猪名川に架かる呉服橋、池田市の呉服町、芝居小屋の呉服座(愛知県の明治村に移築)など、様々な名称の由来になっている。近くに呉服神社もある。祭神は 呉服大明神、仁徳天皇五月山山麓にある伊居太神社が「上の宮」とされるのに対し、呉服神社は「下の宮」とされ、互いの関係はとても深い。

 この池田の街、私が学生時代、四年間を過ごした街。多分、自由奔放な生活をしてただろうなと思う。この呉服町で思い出すのは、駅の反対側に栄町商店街がありその外れに「呉春」という酒屋(製造販売)があって、「1日宣伝活動をするから日当をください」といきなり学生数人で頼み込んで無理やりアルバイトをさせてもらった。美術学生だから看板はお手の物で、奇抜な服装で鳴り物を持って、所謂チンドン屋をしてこの呉服町辺りを「酒は呉春」と叫びながら練り歩いた記憶がある。いくら貰ったかは覚えていない。

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池田市猪名川五月山の眺め

 呉服屋さんの「呉服」はここが始まりという。読み方は「ゴフクヤ」だが、今あまり見かけないが、昔、主に着物や反物を扱っていたように思う。呉服屋さんが質屋をかねているのもあったようだ。着物は高級品で、昔の話で、夫の金銭トラブルや借金を妻がこっそり泣く泣く着物を持っていく先が呉服屋さんだったのかなあ。

 話が思い切り飛んでしまった。

因みに、今のところ関係は全く分からないが、長野県にも阿智神社があるらしい。長野県下伊那郡阿智村にある神社。式内社で、旧社格は郷社。「先代旧事本紀」に天八意思兼命が天降り、阿智の祝の祖となるとあり、由緒ある古社であるらしい。