私の歴史探訪 30.「メディアはメッセージ」

「メディアはメッセージ」という不思議な言葉を聞いたのは半世紀ほど前のこと。

マクルーハンの世界―現代文明の本質とその未来像 (1967年)」という竹村健一が日本に持ち帰った(翻訳)アメリカ(マクルーハンはカナダ人)の社会理論の簡略な本を、学生時代に興味本位で読んだ時である。「マクルーハン旋風」と呼ばれるほどセンセーショナルな書き方で、ずいぶんラフな紹介だったので、しかも竹村健一にさして信頼を置いていなかった当時、それほど話題にすることもなくいっときの流行のように消えていったかに見えた。しかし程なく、竹内書房から「人間拡張の原理(THE EXTENSION OF MAN)が翻訳で出版された。竹村健一はこの原書をかいつまんで日本人向けに著したのだと思う。新しいもん食いの私はすぐに飛びついて、これは凄いとあらためて思い、周りのものに興奮してその新しさと深さを吹聴した。

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 マクルーハンの「予言」が実感される時が、三十年後にやってきた。私がそれを実感したのは「ポケベル」である。1997年のことだと思う。私は高校一年生の担任をしていた。そのクラスの生徒(ほとんど女生徒)たちが授業の間あいだで、校内に二つしかない公衆電話に十数人の列をなして並ぶのである。今から思えば突然の出来事のようである。聞いてみると、他の学校の友達にメッセージ(数字の暗号)を送っているという。とても皆が緊急不可避な状態とは思えない。それなのに、なぜかこの「ポケベル」は大流行。公衆電話の向こうの学校も同じ現象が繰り広げられていた筈だ。そのとき使われていた数字の暗号、数例拾って見ると、

0906    遅れる     0106   待っている     11014   会いたいよ     3470   さよなら

しかも校内におけるこの公衆電話に並ぶという現象はこの年だけであった。次の年には誰も公衆電話に並ばなかった。ポケベルと呼ばれる端末も校内では徐々に見かけなくなっていった。勿論、社会一般ではそれなりの役割を果たしていたと思うが。ポケベルに代わって通話機能の付いたいわゆる携帯電話を高校生もクラスに数人持つようになった。そして授業中に呼び出し音がなって、教師は眉を顰め、当の生徒はみんなの視線に大慌て、当然、職員会議で対処策が議論になった。結局は、校則もほとんどない学校で、携帯を取り上げるとかの罰もなく、注意で終わったように思う。そして次の年、三年目、クラスで携帯を持っている生徒は大方七割にはなっていた。マナーモード機能が簡便になったのとマナー意識も向上したのだと思う。その後、我が校では禁止措置を話し合ったり不携帯を呼びかけた記憶はない。世の中では中学生や数は少ないが小学生も持つようになっていった。学校によっては厳しく禁止するところもあったり、逆に子供の登下校の安全のためにに保護者の方から所持を求める声はあったりしたらしい。私も今日まで、何台買い替えたことだろう。今はインターネット機能と電話が合体した「スマホ」と呼ばれるものが主流である。この機能の多様性には驚く。

 さて、この状況がなぜ「メディアはメッセージ」なのか。「メディア」は媒体、何かを運ぶ道具、「メッセージ」は意味・内容で運ばれる中身である。というのが従来の我々の感覚である。マクルーハンによればそれが同じものだという(少し乱暴な受け止め方だが)。彼の「メディア論」は社会論で今読み返しても結構難解ではあるが「メディアが人間関係や人間行動の形式を変える、そのことがメッセージ・コンテンツ(内容物)となる。らしい。例えばやりとりされるメッセージは意味内容は緊急性もなく、敢えて言えば「軽い」ものだが、やりとりに使うこの「メディア」そのものが「友情の証」というメッセージになる(など、私の解釈)。いわゆる「あなたと私のホットライン」という意味を持つということだ。極端に言えば使わなくても相互にあるだけで「私達、友達よ」という意味を持てる。何だか「便りのないのが元気の印」の逆かなぁ。いや、似てるのかな。

 あまりマクルーハンの名前を聞かなくなったなあと思い始めていた頃、情報・通信機器が発展していく中で、再びあちこちでマクルーハンの理論が語られるようになってきたと思う。(1990年代)

 私はそこで新たなことを想像する。ある人が「携帯電話を持っていたい」と思うとする。勿論誰かと話す道具ではある。しかし、その人には敢えて電話で話さなければならない相手はいない、だからこちらの電話番号を誰にも伝えていない。それでも持っていたいとという欲望は成り立つだろうか?私は成り立つと思う。人間はその欲望の根底に「第三者・他者」あるいは「社会」を持っているから。この先は、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」になっていくので別の機会に書いてみたいと思う。

 今、コロナ禍の中で、「テレワーク」という働き方が求められる社会現象が起きている。この働き方が根付くと、会社のあり方が大きく変わり、人間関係のあり方、社会も大きく変わるだろう。きっかけは人間相互の接触を回避するための手段ではあるが、職種によっては、職場に出かける移動時間や煩わしさの軽減、情報のやり取りの簡便かが定着すれば、そのエネルギーは別なところに使われることになり求めるものも変わってきて文化的な面でも変化するだろう。 

先に触れた、スマホの多機能性は次から次へと新しい機能がつけられていく。多分、私はその何割も使いこなせていないと思う。時々、高校生に教えてもらったりすることがある。LINEと通話機能くらいで、あとは要らないと言えば要らない。なのにそれを保持しているその気持ちって何なのだろう?また、一般的な通話機能を超えて、双方LINEの機能があれば無料?で通話でき、すでに私も時々利用している。まだなぜ無料なのかを理解できていないが。

「gadget(ガジェット」という今使われている意味は「気の利いた小物」らしいが、多分、四十数年前だと思うが、当時、むしろ「あっても実際役に立たんやろ」的な意味に思っていた。例えば、腕時計にテレビ、メガネに受話器などアイデアとしては面白いが、腕時計のテレビ見ながらは危ないし、歩いている人が独り言を言ってたら変だよ。と否定的に思っていたら実際にそれらしいものが出現している。多分今ではあまり珍しくはないが、携帯電話が出始めてすぐの頃、携帯電話にイヤホンをつけて喫茶店で一人喋っている若い女性がいたが、まるでその人の前に透明人間がいるような錯覚を持って不思議な光景だった。そのガジェットの極み、数年前に買ったスマートウォッチのベルトが切れてしまった。H-band と言うアプリで睡眠状態、歩数計、心拍数、血圧計などを記録してくれるデジタル表示の時計だ。時計と一体型のゴム製のベルトに買った当初から、いつまでもつのだろうかと不安に思っていたがこんなに寿命が短いとは。

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新たに買い換えることを少しは躊躇しながらネットで同じようなものを探してみると、なんとデザインとか機能が随分進化していて、少しでもこのガジェットの面白さを知った人間を欲望の渦に引き摺り込むような魅力?を醸しながら、同じ様なそれでいて微妙に差異を持たせた夥しい数の物(映像)が「私を選んで!」と迫ってくる。私はまんまとその商業的策略に嵌り、数日間ちょっとした暇を見つけては、それぞれの差異を微に入り細に入り「どれが一番?」と吟味し続ける。その姿は背後から見ていてあまり良いものに見えそうもない。「これが欲望か」と自虐的に思う。多分、これがマクルーハンの言うメッセージなのかもしれない。

新たなスマートウオッチも届いたのだが、結局、充電の煩わしさから、スマートウオッチをせずに昔から愛用の腕時計をしている。少なくとも2〜3年、電池交換しなくても良い。