私の歴史探訪 40.あの日 8月6日

 今から6年前、偶然、そして突然私の手元にやってきた二冊の本、「HIROSHIMA DIARY」と「ヒロシマ日記」著者はどちらも蜂谷道彦、広島で広島逓信病院長されていて被曝された医師の日記、1945年8月6日〜9月30日の記録である。

ヒロシマ日記」は1975年6月30日発行、法政大学出版局「HIROSHIMA DIARY」は1954年WARNER  WELLS,M.D(ABCCの外科顧問)によって翻訳出版された。日本語の「ヒロシマ日記」が出版されるのがアメリカで翻訳出版された「HIROSHIMA DIARY」の20年も後のことであり、被曝された1945年から実に30年たってからのものである。

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この本を読んで、この時初めて私の心の中に現実味を帯びて浮かび上がってくる風景や戦慄があった。それまで「広島・長崎の原爆被害」に無関心であったわけではないが、わざわざ意識を向ける動機がないと、歳と共に風化していくのも否めない。

私は父の仕事の関係で、当時日本の治世下にあった韓国で生まれ、生後半年の8月に仁川の港から船に乗って引き揚げてきた。40年ほど前に私の叔父から聞いた話だが、博多に着いて大阪に向かう途中、まさに原爆の落ちた二日後の広島で汽車もなく、当時中学生だった叔父が私を背負って半日広島市内を歩いたという。後に、もっと詳しく聞いておけばよかったとは思ったが、その時はその事実を聞かされただけで、街の様子や我々が置かれていた状況をイメージすることもなかった。子供の頃、私を迎えに出た親戚の人から、私が大阪に着いたときは「真っ黒でまるでタドンだったよ」という話は聞かされていて、窓の閉まらない不具合な客車だったのか思い切り煙にまぶされてそうなったらしい。引き揚げの道中の過酷さは幾分聞かされたのだが、広島の情報は「半日背負われていた」だけである。この本の中の写真資料、全て「白黒」だが、私はこのような被曝写真をたくさん見ているし、原爆記念館でも生々しい資料を見たのだが、この日々の手記と合わせて見るとやはりそう簡単には言葉にならないと思った。叔父が何も語らなかったのは、そういうことだったのかもしれない。ただ、一つ気になっていたのは、毎年の職員検診で血液検査の血小板の数値が正常値の枠を外れて低いのだが、若い頃からのことで、別段身体に異常はないので、医者に尋ねても取り合ってもらえなかったし、いつしかなんとも思わなくなってしまっていた。

 そんな中、岡山に来てこの本に出会った。そして読んでみると、蜂谷医師が被曝をした日から重傷を負いながらも、日々、目にする生々しい状況、風景を描かれていて、その中を私は背負われて通過していたのだ、と生後6ヶ月の幼児の目になり追体験することになった。

その記述の中に、血小板のことが書かれている。蜂谷医師はこの爆弾がどのようなものか全く知らず、周りが被弾後まもなく「ピカドン」と言い出したが、蜂谷医師は「ピカ」は覚えているがみんなが言うように「ドン」という音は聞いていないと主張したが、「ドン」という音を聞いたのは比較的遠くにいた人の話で、やはり、蜂谷医師の近くにいた人は「ピカ」だけだそうで、蜂谷医師はこの爆弾のことを頑なに「ピカ」と言っていたらしい。何の情報もない中、試行錯誤の治療をしていたのだが、やって来る患者がさほど外的な症状がない中、手足や体に紫斑が現れると大方、数日後に亡くなるという状況に戸惑ったという。そこで意を決して亡くなった人を解剖してみると、腹部に溜まっている血液が時間が経っているので固まっているはずのものが、固まらずにあったのを見て、血小板の造血機能がやられていると結論付ける。その後のメカニズムはもちろん分からない。取り敢えずの判断であったろうと思う。

 我々は、毎年この8月、原爆記念日終戦記念日を迎え、式典を持ち記憶を風化させないと誓いを立てる。二度とあってはならないと「不戦の誓い」を立てる。私はこの儀式的な形骸化に苛立ちと怒りを感じながらこの日を迎える。

この蜂谷医師の「ヒロシマ日記」は貴重な記録であることは言うまでもないが、疑問に思うことも少なからずある。

この日記の刊行は、蜂谷医師が医師達の機関雑誌に戦後1950年に投稿し始めたのを、アメリカの原子爆弾災害調査委員会(ABCC)の外科顧問として来広中のワーナー・ウェルス博士の耳に入り、本稿の英訳を申し入れられたということだ。

私はこのABCCが広島・長崎の被爆当時、被爆者の治療や救済はほとんど行わないで、その現場で得たあらゆる調査資料を持ち帰ったというおぞましい証言や記録をあれこれの本を読んで知っている。また、放射能の数値を、実際の数値を秘して、直後に広島を襲った台風の風雨によって流された後の低い数値を公にしていたということも知っている。1945年(昭和20年)9月17日枕崎台風ウィキペディアでは

「原爆による放射性物質がこの台風による風雨によって洗い流され、広島市が居住可能になったと考える識者もいる。」という言い方をしている。

蜂谷医師はこの申し入れを快諾し、後書きの中でもアメリカに対し何の恨み書きもなく、この手記の刊行の機会を与えられたことへの深い謝意が述べられている。また、当時(9月30日)アメリカの将校が来てその惨状を目の前にして、蜂谷医師が自分が今ここに生きていること、身内で死者を出していない人はいない、自分は不幸中の幸いだと言ったのに対して、アメリカの将校は「私だったら国を訴える」と言い放って黙ってしばらく外を眺めていた。蜂谷医師はその後、「国を訴える」という言葉を幾度となく心の中で反芻したけれども、「国情を異にする私にはいくら考えても分からぬ言葉であった。」と結んでいる。私は蜂谷医師がわざわざ、この本の結びにそのように書いた意味を考える。

 私は2011年「3.11」後、国策「原子力事業」のために、国や大企業が、どれ程、事実・数値ををねじ曲げ政策を行なってきているか、いまだに思い知らされている。そのことへの「怒り」は私の心の狭さだろうか?もちろん、蜂谷医師の生きた時代も立場も違うので、蜂谷医師個人を責める気持ちはないが、我々日本人を根深く形作っている、抗し難い権力や権威に対する従順な精神性を思うとやりきれない気持ちになる。

 私が学校にも行かない幼少の頃、母に連れられて天王寺公園で開催されていたある博覧会の記憶が一点絞られてある。野外のそれほど大きくないスクリーンに原爆投下のシーンのが映し出された動画である。市民が平和に行き交う映像の空に突然、一機の飛行機が現れ、その飛行機が画面の中央を行きすぎて画面から消えるや否や、画面に閃光が走り、その数秒後今までいた市民も建物も全てなくなっている。それだけの映像である。私はその博覧会のその部分しか記憶にない。私がその後見た写真などの生々しい映像もなくさほど残虐な印象をもったわけではない。ただ、今まであったものが一瞬に消えてただけのことだ。おそらくアトラクション的な催し物も多々あったと思うが、全く覚えていない。

 私はどこかにアーカイブはないかと、大阪の博覧会は明治以降結構の数あるのだが、戦後数年してからの天王寺でのものとなると見つけることが出来なかった。ただ、かろうじて一件、「講和記念婦人とこども大博覧会」1957年3月20日〜5月31日というのを川口仁志という人のこの博覧会の事後評価・報告を「考察」という形で記されているものであった。博覧会の主催者は,大阪市・大阪新聞社・産業経済新聞社であっ た。1951年(昭和26年)9月,サンフランシスコにおいて講和会議が開催され, 翌年4月28日には講和条約が発効,連合国と日本とのあいだの戦争状態が終 結 す る 。 こ れ を 記 念 し て , 1952 年 ( 昭 和 27 年 ) 3 月 20 日 か ら 5 月 31 日 に か けて,行われたものとある。会場が天王寺公園大阪城に分かれて、

この考察の最後のまとめに

「講和記念婦人とこども大博覧会」についての考察 171 「講和記念博」の内容を検討してみると,このような時代の雰囲気がよく伝 わってくる。博覧会を通して子どもに期待されたのは,科学や芸術を学び,そ れを平和国家日本の建設のために役立てていってくれることであった。原子力 は平和利用され,国連は世界平和を実現してくれるであろう。そうした明るい 未来を託されたのが,子どもたちであった。大人たちにとっては,子どもこそ「夢」であり「希望」であり「未来」だったのである。

とある。

この時、7歳だった私が、野外のスクリーン、そこだけ切り取ったように記憶に納め、大方、70年経った今も鮮明に蘇るものって何なのだろう。この考察の白々しい響きは何なのだろう。

改めて思うこと、あの映像を作った人の意図が知りたい。映像装置も内容もさほど手の込んだものでもリアルなものでもない、ただ「今まであったものが、何の理由もなく一瞬にして消えてしまう」そのことの不条理を、分析能力のない7歳の少年がそこだけを切り取った。ただそれだけである。

 

f:id:AchiM:20200805145027j:image父が描いた原爆ドーム