私の歴史探訪 41.怒りの日

テレビのドラマやドキュメントのBGMでよく耳にするのが、劇的な場面でカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」の最初の部分、

O Fortuna,
おぉフォルトゥーナ
velut luna
あたかも月のような
statu variabilis,
ありさまは変わりやすく、

 

モーツァルトの「レクイエム」の中の「涙の日」

Lacrimosa dies illa,      涙の日、その日は
qua resurget ex favilla    灰の中からよみがえる日です。
judicandus homo reus:    罪ある者が裁きを受けるために
Huic ergo parce Deus.    神よ、この者をお許しください。
pie Jesu Domine,       慈悲深き主、イエスよ、
Dona eis requiem. Amen   彼らに安息をお与えください。アーメン

 

そして、ヴェルディの「レクイエム」の「怒りの日」(ディエス・イレ、Dies irae)だろうか?

 

いずれも40年ほど前に歌ったことがあって、耳に残っていて、たまたま私がそう思うだけかもしれないが、最近、聞く頻度が多くなったようにも思う。

 

カルミナ・ブラーナ」の「おお、フォルトゥーナ」はまさに「おお、運命の女神よ」と劇的なファンファーレのような呼びかけで、BGMとしても劇的な効果は十分あると思う。

https://youtu.be/GolC05IWgho

一時間強の大曲で呪文のようなラテン語の歌詞を覚えるだけで背一杯だった。1982年の公演、合唱指導は後の大阪芸大名誉教授の桜井武雄さん(2012年に死去されている)指揮は外山雄三さんだった。

 

カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、舞台形式によるカンタータであり、『楽器群と魔術的な場面を伴って歌われる、独唱と合唱の為の世俗的歌曲 』という副題があり、詩歌集から24篇を選び、曲を付けた。「初春に」「酒場で」「愛の誘い」の3部から成り、その前後に序とエピローグがつく。1936年に完成し、翌1937年6月8日にフランクフルトのフランクフルト歌劇場で初演され、全世界に名前を知られるようになった。(ウィキペディアより)

 

モーツァルトの「レクイエム」の「涙の日」(ラクリモーサ)

四十数年前、大阪府立牧野高校に勤務していた時、文化祭で教職員の参加企画「職員劇」(多分『マクベス』)や「戦争中の物品展示」と並んで私は「反戦意識に関するドキュメント」のビデオ制作をした。クラブ活動中の生徒にインタビューして周り、その頃盛んに行われていた(米ソの)ミサイルなどの開発競争のアピールの映像を編集したりしていた、そのビデオ作品の冒頭、ミサイルが海中から静かに飛び出していく映像に、モーツァルトの「レクイエム」の冒頭の静かで厳かな祈りの音楽をBGMとして使った。そのビデオは文化祭の間、教室展示とともに上映していたのだが、その学校の視聴覚室に置いたまま転勤してしまったので、多分今や行方不明だろうな。ミサイルのおぞましい姿と対比的にモーツァルトの曲の厳かな至高の美しさを持った響き、「聖なるもの」と「醜悪」が同居するこの世界を我々は生かされているのだと思う。

https://youtu.be/J_hM47e5SZ8

 その中の「ラクリモーサ」(涙の日)の悲しい祈り、私はクリスチャンではないが、全人類の心に染み渡る響き。合唱をやっていればいつかはこの曲が歌える機会がやってくると信じていたが、ついに1983年、大阪のザ・シンフォニーホールモーツァルトの「レクイエム」を歌うことができた。指揮は前述の桜井武雄さん、管弦楽アルフィーネ室内合奏団、オルガンでジグムント・サットマリーさんが特別出演されていた。感無量で目的達成感もあってその後合唱をやめてしまった。

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ヴェルディの「怒りの日」は死者がびっくりして目を覚まして生き返るのではないかと思うほどに音響的にも激しく

 

https://youtu.be/Glim_Q2Ni2A

 

1980年7月2日神戸国際ホール、3日フェスティバルホールと(外山雄三さんの指揮大フィル・オーケストラ)連日歌った。

練習を始める時、指揮者の外山雄三さんが「私には最近亡くなった友人がいる、皆さんも大切な人を亡くした経験を持っているかもしれない、私はその人たちのことを心に想いこの曲を演奏したい」という意味のことを言われたことが記憶にある。外山雄三さんはオペラ『戦わなかった兵士の話』(1981年山田洋次企画・外山雄三作曲・指揮)の時も反戦の言葉を熱く語っておられた。

 怒りの日(ディエス・イレ、Dies iraeキリスト教終末論において世界の終末、キリストが過去を含めたすべての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判し、神の主催する天国に住まわせ、永遠の命を授けられる者と地獄で永劫の責め苦を加えられる者に選別する。

Dies iræ, dies illa
solvet sæclum in favilla:
teste David cum Sibylla

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus

日本語訳
怒りの日、その日は
ダビデとシビラの預言のとおり
世界が灰燼に帰す日です。

審判者があらわれて
すべてが厳しく裁かれるとき
その恐ろしさはどれほどでしょうか。

キリスト教の教義としての「怒りの日」を受け止める文化も習慣も私にはないのだが、例えば「裁き」の根底を支える何が良きこと・善で何が悪しきことなのかの摂理が明確にあったのだろうか?我々に今それを自問して、その範を求めることができるのだろうか。自分の利害のために平気で嘘・誤魔化しを行う。裁判にしてもどれだけの人がその裁定を正当と評価しているだろうか。この国に「正義」があると言えるのだろうか?超越的な絶対者のいない現代(だから超越者を求めるべきではない)「力任せにやったものが勝ち」という価値観が蔓延っている。何を見聞きするにも、そこが私のやるせない「怒りの日」なのだ。

 

♪ 〜「このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか」

https://youtu.be/kP4oluZmjzA