私の「イロハ」1 「イ」イリュミネーション

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の阪神地区にて「復興神戸に明かりを灯そう」という意図で1995年に始まった「ルミナリエ」というイベントがある。毎年、凄い人出で、聞くところによると、逆行することも立ち止まることも出来ず、ひたすら人の川に流されるままにイリュミネーションの光の下を潜って行くのだそうだ。当初から毎年12月に開催されているため、近年では「神戸の年末の風物詩」として定着している。しかし、今年は新型コロナ禍で中止が決まったらしい。私はこの手の人が多く詰めかけるイベント、例えば「万博」をはじめ、テーマパークなどもあまり見に行かない。ディズニーランドは絶対に行かない。1970年の大阪千里万博も会場の隣に住んでいながら一度も足を運ばなかった。2025大阪万博も何の興味もない。こうして否定的なことを羅列すると、我ながら「偏屈」な性格だなあと思う。お祭りも電飾も嫌いなわけではない。このように商業的に人の欲望を駆り立て、表看板は「鎮魂」「復興」「人類の進歩と調和」「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」など歯の浮くような言葉で美しく?飾り立てる、虚飾そのことへの抵抗・反発かもしれない。

 私が学生の時(半世紀以上前)、美術学科が天王寺大阪市立美術館を全館借り切って「意識するピエロ群」という展覧会を企画したことがあった。一部屋ずつグループに分かれて、部屋全体を一つの作品にする。私のいたグループはまさにイルミネーションを利用したもので、ミラーボールを設置して観覧者の体に光の球が降り注ぐというもの。

f:id:AchiM:20200905194504j:image我々の作品 この写真は会場を暗くしていないのでその効果は出ていない。

その他巨大な内臓の中を思わせるものや、参加型の展示が多かった。

現代美術においても「光」「光線」「影」を用いた作品が出始めた頃であった。美術も絵画や彫刻から表現方法が拡大して、空間芸術、自然な風景そのものを提示するアース・アート、クリストの橋や建物を梱包したような作品も出現した。

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山口勝弘の作品

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新宮晋の作品

一方、自宅の庭をイルミネーションで飾ることや街ぐるみでイベント的に電飾することも盛になっている。電飾を見て「美しい」と思うこともあるが、私はなぜか暖かさよりも寂しさを感じることがある。理由は分からないが、電飾が何か別の感情的な要素を引っ張ってくるのだろうか。よく似たことに、花火がある。近くで花火大会があれば観にいくこともある。この光のスペクタクルは、音とともに非日常の壮大な空間芸術のようにも思える。夜、星空を眺めたり、月を見る、このように光を見つめることに我々人間の心を揺さぶる何かがある。

それでも、電飾を寂しく思うのは何故だろう。

 今思ったが、「マッチ売りの少女」の物語の背景に通じるものがあるかも。暖かい部屋から漏れる幸せな光の外で寒さに震えてマッチを売る少女の空間の隔たり、それをふと心の隅に喚起してしまう。ことがあるのかも。