私の「イロハ」4 「二」人間

「人間」というタイトル設定、デカすぎて少々安易な感じもする。捉え所のない言葉の代表かも知れない。生物学的、あるいは進化論的な「人間」は別の機会に回すことにして、

 まず日本語の「人間」という表記「人ー間」の概念が「人」ではなく「間」、日本の文化の本質かも知れない。昔から日本では「個人」の「個」の概念が薄く、「個」と「個」あるいは「個」と「社会」の「間」にある「関係性」を重く見る。今も少なからずその傾向は残っている様に思う。いつ頃からの言葉だろうか?と調べてみると、

【人間の語源・由来】によれば、
人間は、仏教語でサンスクリット語「mamusya」の漢訳。 仏教語としての「人間」は「世の中」「世間」「人の世」を意味した言葉で、「人間」に「人」そのもの意味が加わったのは江戸時代以降である。 「人間」を「にんげん」と読むのは呉音、漢音では「じんかん」という。 

 本来は我々が思っている「人」(human being)という概念とは少し違う様だ。「人間」=「人」は江戸時代以降と新しい。

ウィキペディアでは

人間(にんげん、(英: human being)とは、以下の概念を指す。

人のすむところ。世の中。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表すことば。
(社会的なありかた、人格を中心にとらえた)人。また、その全体。
ひとがら。「人物」。 

とある。

やはり漠として捉え所がない。我々のこの言葉の用い方も時と場合によって都合が良い。例えば、少し良からぬ事をした後で、「まあ、人間のする事だから」と自他共に言い訳に使ったり、我慢できないことに「俺だって人間だからね、腹が立つんだよ」と弱さを「人間」の所為にすることができる。この場合の「人間」ってその上に「神の完全性」を想定してそこに至らないある種の基準なのかも知れない。

人格的な使い方では、お店の挨拶など「いらっしゃいませ」と紋切り型の、場合によってはお客を見ないで発せられることがしばしば、あるいは機械的に返ってくる電話の自動音声などのクールな響きは「人間的で暖かい」感覚は持てなくて逆にイラッとすることもある。私は未だに留守録メッセージを伝えることも、会社などの電話の自動メッセージに対応するのも苦手である。直接その向こうに「人間」がいないからだが、そんな訳か、AIのロボットをドンドン「人間」に近づく様に進化させている。人間に近づいてある領域に達すれば、納得するするのだろうか。実際、老人介護などで精神的なサポートにも利用されている様である。生身の人間でないので気を使わなくてすむという利点がある(これは利点だろうか?)こうなれば「人−間」としての「人間」の放棄にならないだろうか。むしろ、違和感よりも、(ある意味機械である)AIロボットに親近感や愛情を抱く様になり、そう思えば、人間の精神の柔軟性に驚く。そのうち AIのロボットに恋をする人が出てくるかも知れない。「フェチ」(物神)という現象があるので、あっても当然かな。

 一方、能力・才能の世界で、我々が「人間的」という時、その裏に「神の完全性」を想定していることがある。例えば、ある技能、あるいは芸術的表現など、それが完璧な場合「神っている」と称え、それが不完全で少しドジったりすると「人間らしさがあって、味がある」と慰めたりする。「人間」って所詮、不完全な生き物なのだ。古代ギリシャの神話や旧約聖書創世神話に「人間」は「神」に似せて造られたとか、「神」さんも造形の腕は確かじゃなかったということか。

f:id:AchiM:20200911171123j:imageアダムの創造 ミケランジェロ

https://youtu.be/WxaiA7FlD5c

アマデウス(神に愛された)モーツァルトの曲の完璧な演奏。

昔、ベルリンフィルのメンバーが演奏するこのモーツァルトの曲を、まさに完璧で、人間が演奏しているとは思えない天から降りてきた音として聴いたことがある。その時の至福感は今でも覚えている。そのコンサートの翌朝の新聞面に矢張り「完璧」という書評があった。

 悩みや苦しみを抱えた存在としての「人間」。普通「神の怒りに触れ」ということはあるが、神が悩み苦しんでいる様子は想像しにくい。しかし、ギリシャ神話の神々はまさに「人間的」で欲望、嫉妬、恨み、物語の全てが人間社会を映した様な物語である。だから面白い。この場合の「人間的」の意味は、ドロドロした感情の坩堝で、神話の中で語られる一つ一つの典型が我々の精神世界のモデルでもある。例えば「自己愛」=ナルシス、「不信・不安」=オルフェウスの振り向き、エディップス・コンプレックス、タンタロス、シジフォス、プロメテウスなどなど結構苦しみに溢れている。

「人間」は倫理や徳の高貴さを求められることもある。人の道を外れたり、裏切られたりすると「人間性を疑う」「あんな酷いこと、人間のすることじゃない」など、そもそも「人間」は「倫理的」存在で、この世界の中で同族・同朋の意識があるので、困っていれば助け合い、お互いを高め合う喜びが内在的にあるのも確かである。

「人間的」と「人間性」。よく似ているが多少ニュアンスが違う。「人間的」なんか素材的に木の様な弾力性があるのに「人間性」はクリスタルなイメージ、あくまで私の感覚・印象。「人間的」は人間のありように求められる期待、同じ人間としてあって欲しい、「人間的な優しい心、その期待が外れると人間的欠陥」となる。

人間性」は人間特有の本性のことだろうが、尺度の様なもので「人間性に悖る行為がなされないと人間性を疑う」ことになる。

 

人間失格」という太宰治のモノローグっぽい小説がある。はるか昔、学生の時、強い共感を持って読んだ記憶がある。「人間は…」とか「人間の…」の言葉の本当に多い小説。題名通り暗くなってしまう。今やyoutube でも朗読を聞くことができる。