私の「イロハ」9.「リ」旅行

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。奥の細道

「旅行」と「旅」 このニュアンスの違い、「旅行に行く」と言い、「旅に出る」と言う。「チョット旅に出る」と言われると「ヒョットして帰ってこないかも」という響きがどこかにある。フーテンの寅さんは当てもなく旅に出る。昔(多分江戸時代以前)は旅をするのも一般庶民には大変危険を伴うことで、交通機関らしきものも十分になく、追い剥ぎにも怯えながらまさに命をはってのことで、なんとか宗教的な動機付けで「〜詣」などすることがやっとであったと思う。近世になって、街道や宿場も整備されて旅をするひとも増えたという。

 一方「旅行」はオフィシャルな感じがする。旅行業者がプランを立てて、ホテルや移動手段も手配してくれる。勿論、こんな分類あてにならないが、「旅行」という言葉が新しいのかも知れない。

私の小学校の修学旅行は「伊勢」、昔の「お伊勢さん詣り」の名残だろうか。今年はコロナ禍のせいで修学旅行が取りやめになった学校もあるようで生徒のガッカリ感は大きい。教師の思い出としての修学旅行は、寝不足と移動の疲労で、最も疲れる行事ではあった。「可愛い子には旅をさす」という言葉がある。小さい子供でも、今や一人旅する子がいる。親戚の家へ行くとか、具体的に迎えてくれるところが有ればそれほど難しくはないが、道中の緊張や不安は相当のものだと思う。その分、大きな自信と達成感は得られると思う。

 大人になってからだが、若い頃、私は一人旅が好きで、毎年のように(もちろん休暇を取って)車で当てもなくフラフラ走り回って、日が暮れれば適当に泊まるところを探して…という旅をした。具体的な目的もなくただ知らないところ、風景を感じるだけ、それとドライブが好きだったこともある。日常的にも、職場から家にまっすぐ帰ることもなく、途中の街を彷徨いてからで、常に自分の外に何か探し求めていた。同じところで落ち着くのが苦手で引っ越しも沢山して放浪癖があった。いわゆる「腰の軽いヤツ」。

 ある時(1970頃)、友人が土曜日の午後、「今から小豆島に行こう」と言って来た。月曜までにしなければならない資料作りの仕事があったのでガリ版謄写版のヤスリの板)を抱えて、船の上でガリガリと原稿を書いていた懐かしい記憶がある。全くの無目的。小豆島に着いて門構えの立派な大きなお屋敷で出てこられた奥さんに「今夜泊めてもらえませんか」と聞くとすぐに「いいですよ」ということになった。おおらかな時代。しかし、実際は奥さんが「食べるものがないので、今から買い物に行ってきます」と言われたので 、そこまでされるのもと思い町で旅館を探すことになった。表札に「大石」とあったので、ヒョットしてあの赤穂浪士大石内蔵助と関係があるのでは?

 きちっと目的を持っての「旅」もある。

私の二十歳の誕生日(二月)に、誰にも祝ってもらうことなく一人で過ごしたいと(一月15日の市の成人式も不参加)少々頑なな気持ちで(修行僧のような気持ち)一週間のスケッチ旅行、伊勢・志摩半島の大王崎「波切(なぎり」で寒風の中、誰とも話さずひたすら数百枚のスケッチをした。

f:id:AchiM:20200927211309j:image

f:id:AchiM:20200927211324j:image大王崎灯台 油絵

 

 この歳になって家に居ても落ち着かない。今年になってからも、寝床は幾度と無く変えて、春先は座敷で、夏は風の通る玄関先、堪らないほど暑い時はクーラーの効くリビングで、といった具合に、今は蔵を改造した狭い二階で寝ているが、最近決まって朝3時ごろ目が覚める、頭の窓からこの数日、件(ベテルギウスの減光)の冬の星座オリオン座が東の空に見え出した。まだ実現していないが、庭の樹にベッドを吊すことを夢想している。

 加齢のせいか、今は長時間の運転も目が疲れて控えるようになってしまって、旅に出るという欲求もあまり起こらなくなってしまった。

街に出たいとも思わなくなった。

 私が退職する前に、退職者向けに「退職金と年金の使い方」という講座があった。突然手にするお金を使い誤って、老後人生をダメにする人が少なからずいたからだそうだ。その中で、先輩の元教員が講師となって言ってくれたのは「夫婦で海外旅行を何回かすれば、財産はすぐになくなるよ」という趣旨の警告だったように思う。お節介な言葉にも思えるが、「老後の生活に3000万円必要」と公に言われると、少々恐怖ではある。老後の楽しみに旅行を楽しんでいる人は私の周りにも結構いるが、私は財力の問題だけでなく、わざわざ出かけなくても、今は、日々の生活の中で、十分「旅」をしている感覚がある。

 非日常としての「旅」とは逆に、生活としての旅 遊牧(ノマド)というスタイルがある。移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や牧畜以外の生業を取る移動型の人々、ジプシー、ロマの人達など。その人たちは原則定住することなく移動が生活だから「旅」の概念が違うかも知れない。ボヘミアンは元来はボヘミア人またはボヘミア出身と考えられていたジプシーを指すが,1830年七月王政期にパリに集まった,貧しくしかし自由なその日暮しを送る文学青年や若き芸術家たちの呼称だそうでボエームbohèmeと呼ばれるようになった。私の好きな曲にシャルル・アズナブール(2018年10月1日に亡くなった)の「ラ・ボエーム」というのがある。若き貧乏絵描きの恋心の歌。プッチーニのオペラ「ボエーム」も素晴らしい。

https://youtu.be/hWLc0J52b2I

https://youtu.be/MnqiOv8i-XI

 フランスの哲学者ジル・ドルーズらによって提起された概念「ノマド」は本来、遊牧民をはじめとして非定住的な生活を送る人々(ノマド)の生活形態を意味する語であるが、1970年代以降、フランスを中心に展開した新しい思想の流れのなかで、非定型的・非同一的な多様な生の可能性を表現するイメージを担う言葉として多用されるようになった。おおむね、国家や社会や集団のなかで与えられる固定した地位や役割を拒否し、中心的・求心的な権力や権威からたえず逃走するような生のあり方を称揚するものといえる。

 日本中世にも、民俗学で言う「周辺人」や「河原人」、「山窩」など行政区に縛られないで移動生活をしていた人々がいた。

 働き方としての「ノマド」。今や合成語の日本語として使われているノマドワーカーは、ノートパソコン、スマートフォンタブレット端末などを使い、Wi-Fi環境のある喫茶店など、通常のオフィス以外のさまざまな場所で仕事をする人を指すらしい。また、そのような働き方を、「ノマドワーク」といっている。最近では定住の場所を持たずに漫画喫茶やネットカフェを渡る歩く人たちも増えているらしく、このコロナ禍でそのような場所も閉鎖されて行き場のない人のことがニュースになっている。

 こうしてみると、「旅行」や「旅」の概念は「定住」という日常の基盤生活があり、「非日常」を持つことで生活をリフレッシュするある意味贅沢な行為に思えてくる。

「go to travel 」に思うこと。

横文字好きの行政の長が、一頻り「Stay (at)home」と訴えていたと思うと、今度は「Go to travel」と国のトップがキャンペーンを貼っている。英語は人称がないと「Let's 」がない限り命令形である。「家に居れ」、「旅行に行け、旅に出ろ」ということで、そのまま日本語でキャンペーン・勧誘すれば角が立ちそうなので、横文字を隠蓑に使って和らげているようだが、権力者の狡さだと思う。権力者が命令するのは陸でもないことだと思う。確かに、「経済を回さなけば」「旅行業者を守れ」との建前は理解できても、命令されてまで旅行に行きたいとは思わない。いまだに「オリンピック、パラリンピック」と煽り立てるのを見れば利権の下心が見え隠れする。世界的に見てもまだまだ油断できない状況が続いているのに。