私の「イロハ」16.「タ」対象

「対象」。心(精神活動)が向ける、また眼差しを向ける事物、あるいは人。目的、あるいは向かい合う相手。「対象」という漢字の持つイメージは「相対する像」という関係性が強く、英語ではobject、フランス語ではobjet。など意識を向けられた「事物・人その物」のニュアンスが強いように思える。中学の時英語の授業で、S-V-O-Cなど文型を覚えさされたのを思い出すが、その中でO=目的語と教わるが丸暗記はするものの「目的語」の意味を理解するのはなかなか難しかった。

 美術用語でオブジェと言う言葉がある。私が半世紀以上も前の学生の頃知った言葉で、理解するのに苦労した。彫刻などと共に立体作品として展示されたりしているのだが、それを的確に定義することは難しい。彫刻は字の通り作者の手で彫ったり刻んだりしたものなのでそれに対して、何か既製品や物質的な生なものを提示したものかな、ぐらいの理解。代表的な作品にマルセル・デュシャンの「泉」というのがあり、工業製品としての便器に「泉」という名前をつけて提示したもの。

1917年「ニューヨーク・アンデパンダン」展に出品しようとしたデュシャンアンデパンダン展の委員だったが、この作品の展示を協会に出品拒否され、デュシャンは委員を辞退し作品はその後行方不明にという曰く付き。我々が今、目にするのは殆どがレプリカらしい。

f:id:AchiM:20201103192826j:imageマルセル・デュシャン「泉」

その後、「オブジェ」は現代美術の新しいジャンルになり、1960年代からは沢山の作品を目にするようになって、私の理解では「作品が物質的で、その存在性を問題にしているような作品」と定義することにした。しかし世の中は、具象であれ、抽象であれ置物的なもの、あるいは本来彫刻と呼んでいたものまで「オブジェ」にしてしまっている。

 「対象」に戻ると、意識を「対象」に向けて、そこに至るのは結構難しい。視覚や聴覚など五感を利用して対象に向かおうとするもそれぞれの機能が万全というわけでもない。

 先程、車の免許更新のため、目の検査があり、明るいところから暗い所に入って視力の回復時間を計る検査で1分近く要した。二十代の若者であれば10秒くらいだという。道具としての五感は確実に鈍化していると言うことか。

 意識は「対象」に向かって出かける前にすでに意識の向かう方向を決めてしまっていたり、直接向かうのをやめて寄り道をして、第三者の意見を聞いてから「対象」に向かったり、「色眼鏡をかけて見る」というように意識の主体が「対象」に好みの味付けや、色付けをしてしまっていたり、と意識が「対象」に至りついて「初めまして」と新鮮な出会いになることはなかなか稀なことのように思う。

我々は寄り道が好きなのだ。直情的にダイレクトなことは敬遠しがちである。「I love you 」とか「Je t'aime 」とか言って欲しいけど、心の準備なしに言われるとちょっと引いてしまう。欧米語の場合、目的語(objectif )の「you」「te」がなければ日本語のように「好きです」だけでは意味をなさない。日本人は(言外に意を汲む)省略も好きなのかもしれない。

 近所を車で走っていると「オブジェ」という葬儀屋の看板を見かける。最初見た時驚いた。葬儀屋さんがどのような意図で「オブジェ」という名前の会社にしたのかわからないが、ある意味生々しい。先日、親戚の葬儀に参列した。義母が亡くなられて翌々日の葬儀で、その数時間後のお骨拾いを済ませて一連のお別れの儀式が終わる。生命ある生体、死、亡骸、お骨、この目まぐるしい流転の時間を参列者が共有する。

まさに精神も魂もそこには無い「亡骸、お骨」はオブジェである。不可逆的な事象、それを否応なく目にする。