私の「イロハ」17.「レ」霊

 昔から、人間は「霊魂」と「肉体」とを持ち合わせていると考えられていて、死によって「肉体」が滅びても「霊」は肉体を離れて存在すると信じられてきた。この場合の「信じる」という精神活動も曖昧で、あまり厳密に考えない方が、特に他人に対する場合、無難である。はっきり「死んでしまえば、そこで何も残らない。霊魂なんてないのだ。」と言い切ってしまうと、聞いた方はあまり良い気分ではない。しかし、個人的には「あの世」、天国も地獄も信じていなくて極めて唯物論的な考えでいるので、「死」による「私という存在の消滅」を想像すると、この世界にもはや自分が存在しないその空虚感を受け止めるのにエネルギーと勇気が要る。

 一方、友人や家族との死別を経験して、その現実を受け入れるのにかなりの時間をかけて、気持ちの反芻を繰り返さなくてはならない。

多分、誰もが経験する、このモヤモヤを解消・処理するために「霊」という概念を創出したのではないかと思う。

 また別に超越的な世界を設けて、宗教的・倫理的あるいは政治的な統治の道具として「霊的なもの」が利用されることがある。

非道徳的なことをすると「こんなことすると罰があたるよ」とか「地獄に堕ちる」と脅されたり、「霊」を神聖化して「英霊」として祀り畏怖の念を持たせる、絶対化して、そのことで「手を触れてはならぬ!」ということになる。

 私は超越的なものに対する人間の想像力にはとても興味がある。死後の世界、神の世界、今流行?のスピリチュアルな世界など。しかし、物事の解決の手段として安易に「超越的な」思考に頼りたくない。とは言いながら、我々の思考そのもの、感情作用全てが、思い込みや記憶・体験に支配されていて純粋理性などというものはないと思う。

 私は幼少の頃、祖母からよくお化けの話や、夜、笛を吹けば蛇が出るなど聞かされたため、結構、怖がりな性格に育ったようで、夜、渡り廊下の手すりに雑巾が置いてあるのを何か得体の知れない小動物と思い、悲鳴をあげて部屋に飛び込んだ記憶がある。親が確認すると雑巾の塊ということで、「この子は怖がり」という烙印を押されて、不名誉なことに未だに怖がりは続いている。生命を唯物的に考えることと、何かを恐怖することとは別のようだ。我々がいるこの世にも、昔から描かれてきた地獄絵図とは少し違うが、地獄的様相はいくらもあるし人生の中で耐えがたい責苦は幾度となく経験しなければならない。それに耐えきれず自ら死を選ぶ人。その先に何を見たのだろうか。

 洋の東西、いろんな民族がそれぞれの神話を作り、その中で天国や地獄を描き出し、生前良き行いをすれば天国に、悪しき行いをした者は地獄へと振り分けられる。

f:id:AchiM:20201110153451j:imageミケランジェロ最後の審判

 

f:id:AchiM:20201110114956j:image地獄絵図

地獄では非物質である「霊」である筈なのに何故か「物質としての肉体」が物理的な責苦を受ける。

あの世は、天国や地獄だけでなくこの世の延長のような普通の魂が暮らす場所もあるのだろうか。

 14世紀イタリア・フィレンツェの詩人ダンテの「神曲」では「地獄編」「煉獄編」「天国編」と別れていて、「煉獄編」は地獄には堕ちなくてある程度の刑罰を受けながら「浄め」を受けて天国受け入れてもらうのを待っている待機組という事らしい。

「地獄」も罪の重さに於いて沢山の階層に分かれている。「天国編」ではダンテの初恋のベアトリーチェに案内をしてもらう。九歳の時に少女ベアトリーチェに一目惚れして18歳で再会する。ベアトリーチェは他の人に嫁いで二十四歳で夭折してしまう。それでもダンテは生涯彼女を思い続けて「神曲・天国編」で案内をしてもらうという。

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この本はいろんな画家がイメージした図版が挟まれていて楽しく読める。画家だけでなく、フランツ・リストは「ダンテを読んで」(いわゆるダンテソナタ)勇壮なピアノ曲を作っている。

https://youtu.be/qulOpRB0O_c

彫刻家ロダンはダンテの「地獄編」の冒頭「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を作品にした。「地獄の門

 

f:id:AchiM:20201109205526j:imageロダン地獄の門

現代ではダン・ブラウンが『神曲』の「地獄編」に触発され「インフェルノ」を書いて、映画化もされた。

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表紙はダンテの肖像。

この小説のプロローグに

"地獄 "とは、ダンテ・アリギエーリの叙事詩神曲』に述べられた地下世界であり『神曲』ではそこを"影 "ー 生と死の狭間にとらわれた肉体なき魂ー が集まる複雑な構造として描いている。とある。

 

この小説は、今世界を席捲しているコロナ禍を予言させる物語になっている。今年初めにこの疫病が話題になり始めた時、まず 思い出したのがこの小説であった。