私の「イロハ」21.「ナ」ナビ

「ナビ」navi のもとになった動詞navigate、ラテン語の<navigare>が起源で、navis=船 agere=操舵するが語源だそうだ。海や川を航行する、派生語のnavigation「航海」、navigator「航海士」。

 突然、昔見た映画を思い出す。1985年、フェデリコ・フェリーニのイタリア映画「そして船は行く」E LA NAVE VAを思い出した。とても楽しい、しかも哀愁を浴びた映画でストーリーはほとんど覚えていないが、いろんな種類の人が同船していてオペラの合唱があったり、グラスハーモニカを演奏したり、ダンスしたり閉ざされた船内の中で濃密な人生模様が繰り広げられる。この映画の粋な題名「そして船は行く」のイタリア語NAVEが記憶に食い込んでいた。

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先日、友人の誘いで閑谷学校のイベントを見に行った。数十年前に行ったことがあるが、道は全く覚えていないので、初めてipadgoogle navi を使ってみた。私の車にはナビはついていなくて、ほぼ使ったことがないし、必要性を感じたこともなかった。しかし、文明の利器への関心はあったので、使ってみると、安全上画面を見ることはせず隣の席に置いて、声の案内を聞いて走っていたが、交差点や分岐点の少し前から「この先30m、左折です」などと正確にアナウンスしてくれて難なく目的地に着くことができた。

 さて、余談だけど、閑谷学校の駐車場に着いて、車から降りようとしていると、折り良く、誘ってくれた友人と共通の知り合いが前を歩いているのが目に止まり、挨拶をしてイベントの場所を尋ねると、空模様が怪しかったので翌日に延期されたと言う。そしてその夜は予行演習のような事をするらしく、知り合いのスタッフが中にいて、中に入る許しをもらってその映像を建物に投射する予行演習を見るだけで友達には会えず帰ることになった。

 帰りは、すっかり日が暮れて、真っ暗な山道、田舎道を今度はナビなしで走行。来る時はすっかりナビのアナウンスに頼りきっていたので、地形や周りの様子が記憶になく暗中模索って感じになって、本来の動物的カンをフル稼働しながらなんとか帰宅できた。

 そこで思った。便利な文明の利器「ナビ」は確かに知らない初めての所に行くのには心強い味方である。しかし、それに依存していると、生身の身体が学習する(例えば町の建物や、交差点の形状、曲がり角の建物の形、周りの森の雰囲気も印象が薄く、あるいは右だろうか左だろうかなど迷う作業もなく)機会が大きく削減されるので、生の身体性が劣化するのではないかと危惧してしまう。

「迷者不問」と言う言葉があって、道に迷う人は、人に相談せずに、自分勝手に行動してしまうからだというたとえ。転じて、分からないことは、積極的に人に尋ねるべきだという戒め。「迷者」は、自分の行く道を分かっていない者の意らしいが。さてこれをどう捉えるべきか。わからない道は積極的に尋ねるという意味では、「ナビ」は有効で尋ねる相手としてはとても優れている。

逆に「道に迷えば 道を覚える」と宗教家の唱えそうな言い伝えもある。大いに迷えば新しい道が開けると言う意味だろうか。自分のことを思えば、いつもあれこれ迷って、それでもさほど成長しているようには思えない。が、あれこれ試行錯誤している間に実現することも多い。不器用な私としては一度ならず失敗してやっとこさ何かしら会得することがほとんどである。

 「ナビ」に限らず機械文明そのものが、身体の延長のようなものだから今更の話ではあるが、だから自分の身体性の劣化を実感してそれにわざわざ疑問を抱く機会もそうあるわけではない。むしろ便利さを讃えて、それがより豊かな生活だと思うことの方が当たり前になっている。

 似た話に、今年のコロナ禍でよく取り上げられるGPSによる個人の位置情報、例えば、ある街のある日の、人間の往来の密度がgoogle の調査で示され、それによって移動を制限する対策が取られたり、あるいは感染予想を立てたりと有益な面もあるが、携帯の位置情報で個人の行動も管理できるので、強い権力があれば支配の道具にもなる。少々窮屈でも管理されている方が楽と考える人もいて、今のようにコロナ禍の中では尚更、統制的な政策を受け入れる気分は強くなっていると思う。

 因みに、テロリストたちは決して携帯電話は持たないとか?位置情報が特定され直ちに攻撃対象となるからだそうだ。